あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

企画展「陸軍少年通信兵学校」へ(東京・東村山)

2008-08-17 23:44:08 | Weblog
 今日はほぼ1日中雨となり、首都圏の最高気温は真夏
日になった一昨日より10℃くらいも下がり、涼しい1日で
した。

 その一昨日、暑い中訪ねた東京・東村山市での企画展
の模様です。

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 2008年8月15日(日)



 第2次世界大戦が終わって63年の日、東京・東村山市
の「東村山ふるさと歴史館」で開催中の企画展「陸軍少年
通信兵学校」の観覧に、職場の先輩、Hさんなどと行った。




 なぜこの企画展に出かけたか。それは、かつて東村山
市にあった陸軍少年通信兵学校の施設が、第2次大戦
後転用され、誘ってもらったHさんの初期の職場であった
というのが一つ。

 次に、新潟県にあった村松少年通信兵学校の卒業生で、
やはり職場の先輩であり四国遍路の先輩でもあるSさん
から、1期先輩が戦場に赴く途中、東シナ海で散ったこと
を記した鎮魂の書を、最近いただいたこと。

 もうひとつは、少年通信兵が習得したのと同じモールス
通信の仕事を、私も初めての職場で5年間したことがある
ということから。

 陸軍少年通信兵学校は、東村山市富士見町、現在の
第一中や明治学院高校周辺の広大な地域を占めていた。


 第2次大戦当時の通信は、主にモールス通信で行われ
たが、通信要員の育成は、「頭の軟らかい純真な少年の
頃から適正なものを選んで教育するのが効果的」というこ
とから、徴兵制度より若い15~16歳の少年を選抜して
行った。

 入学希望者は全国から集まり、昭和18年(1943)の
11期生は、定員700人のところ10,000人の応募があ
ったという。

 会場には、無線機や受話器、電鍵など、多くの通信機
器が展示されていた。


 その中には、Sさんが使った受話器もあった。




 通信兵学校の校舎や生徒、訓練中の様子など貴重な
写真も多い。



 モールス通信を受信して記録する和文タイプライターは、
「和文打字機」と呼ばれ、その教本や、訓練の写真もある。



 私も最初の職場で、この和文と欧文のタイプライター
の改良したものを使用したが、受信するモールス音は、
このようなレシーバーからでなく、音響機という装置で
聴取した。

 蛇足ながら、5年間使ったモールス記号は忘れること
は無く、ン十年過ぎた今でもよく覚えている。

 例えば「サイタマ(SAITAMA)」は、和文と英文(欧
文)では以下のようになる。

【和文】 ―・―・― ・― ―・ ―・・―

【英文】 ・・・ ・― ・・ ― ・― ― ― ・―

 あわせていえば、現在はデジタルの時代で、地上TV
放送も3年後にはデジタルTVだけになるが、デジタル
通信のさきがけが、このモールス通信なのである。

 会場では、東京国立美術館フィルムセンター所蔵の映
画「武蔵野に鍛ふ 陸軍少年通信兵学校の記録」の抜
粋映像も上映されていた。


 展示や映像を見ると、厳しい通信訓練や戦闘訓練を経
て戦場に赴き、乏しい資材や食料の中、敵機の来襲を避
けながら通信を確保するため苦労した様子がよく分かり、
改めて平和の尊さをかみしめた終戦記念日であった

 この企画展は9月7日(日)まで開催中。
開館時刻は9:30~17:00、月曜休館、入場無料

 観覧を終え、東村山駅近くで昼食後、少年通信兵学校
があった現場を訪ねることにした。



 西武国分寺線で一つ国分寺寄りの小川駅で下車し、西
へ10分足らずで通信兵学校の正門前に着く。

 Hさんが通勤した半世紀以上前は、小川駅から職場まで
の道の両側は林だったとのこと。商店街や住宅の続くその
変わりように驚いていた。

 正門の手前を流れる野火止用水の橋の、石のらんかん
は、当時のままらしい。 


 ここが、少年通信兵学校の正門を入ったあたり。

 左手は現在、明治学院高校の正門になっている。

 野火止用水に沿って北東に進み、敷地の東端付近まで
行ったら、古い建物が見えた。

 そばに近づくと横長に長い平屋の建物。通信兵学校の
材料庫だったものと思われ、現在は使っていないようで
朽ちかけているが、貴重な近代化遺産といえよう。


 敷地の東端を北に進み、Hさんのもうひとつの乗降駅
だったという西武多摩湖線の八坂駅に向かった。

 歩いた距離はわずかだが、猛暑日の午後で、終戦当日
をしのばせる、厳しい日差しだった。
 

 

 

 
 
 

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6 コメント

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東京陸軍少年通信兵学校 (鈴 真由)
2011-09-09 18:01:35
はじめまして。
「東京陸軍少年通信兵学校」の検索から、お邪魔させていただきました。

実はわたしは、まさにそこに住んでいます。
最後の建物があった国有地。
わたしは、ずっと、なんだろう?あのボロ小屋と思っていました。
その建物も壊されて、今、何もなかったかのように建売分譲地として売りにだされています。

国有地だったのが、建売になるんだ。と思ってボロ小屋(失礼します)の歴史をたどっていったら、なんと、わたしの住んでいる地域全体が戦時中、少年通信学校だった。と言う事実につきあたりました。

当たり前のように散歩していた橋が校門だったとか。
今では何の形跡も残さない住宅地になっております。
生まれ育った場所なのに、何も知りませんでした。

最後の戦跡がついに消えようとしていて、初めて知った事実でした。

返信する
お住まいでしたか (saikoroat)
2011-09-09 21:44:11
鈴さん、ご覧いただきありがとうございました。
あの場所にお住まいだった方にご覧いただくとは、
私にも思いがけないことでした。
3年経ち、新しい住宅地になったのですか。
近くですので、また機会を見て、訪ねてみたいと思います。
返信する
企画展「陸軍少年通信兵学校」 (inatsuma)
2021-04-05 21:21:55
はじめまして

ちょっと古い話で恐縮ですが、私は50年ほど前に東京陸軍少年通信兵学校
の本部付近(現在の明治学院高校内)に住んでいた者です。
終戦後、学校の跡地は旧逓信省(後に電電公社)に払い下げられ、多くの建物は社宅として使用されていました。その社宅に父親が入居していました。

2008年8月の企画展の写真を拝見いたしましたが、その中で、「東京陸軍少年通信兵学校の見取り図 1944年頃(第11~12期生在校時)」
を大変懐かしく見させていただきました。画像には多くの建物とその名称らしき文字がありました。
しかし、画像の解像度が低く、建物の名称の文字がよく読めない状態なのが残念です。

そこでお願いですが、文字が読める程度の解像度がもう少し高い画像データがありましたら入れ替えて再掲示などして、文字が読めるようにしていただくと助かります。  

お手数ですが、よろしくお願いいたします。
返信する
入れ替えました (saikoroat)
2021-04-06 10:19:03
inatsumaさん、ご覧いただきありがとうございます。
ご要望の、少年通信兵学校の見取り図を大きめのサイズに差し替えました。
私のパソコンならこれで文字が見えますが、いかがでしょうか。
返信する
有難うございます。 (inatsuma)
2021-04-06 14:53:01
saikoroat様

早速のご対応、感謝いたしております。
お陰様で各建物の使用目的が良くわかりました。
私は衛生室をリフォームした集合社宅に住んでおりました。
この学校は全体が私の故郷のようなところですが、当時は何のための施設か殆ど知らされておりませんでした。

全国から集められた優秀な人材を少年通信兵として教育し2年間で卒業して出征し、その後多くの方が不幸な運命を辿ったことを知り、心から哀悼の意を表したいと思いました。

お手数をおかけしました。誠に有難うございました。
返信する
お分かりいただけ何より (saikoroat)
2021-04-06 18:07:34
inatsumaさんは、衛生室だった建物にお住まいでしたか。
野火止用水に近い場所なので、現在は明治学院高と明治学院中の敷地になっているところのようですね。
13年近くも以前の投稿ながら、その後、最初のコメントの方とともに、
この地にお住まいだった方、お二人にご覧いただき、大変嬉しい次第です。
返信する

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