2017年3月18日(土)
毎年春と秋の彼岸には、父母の眠る埼玉県小川町の輪禅寺(りんぜんじ)に墓参に行っ
ているのですが、昨年秋の彼岸は思いがけず腹痛で取りやめたので、今日は1年ぶりです。
墓に行く前に、菩提を守ってくれている弟の自宅に向かう途中、八和田(やわた)小学
校前の高台から外秩父の名峰、堂平山(どうだいらさん・876m)と笠山(かさやま・
837m)を眺めました。左が堂平山、右が笠山です。
私は、ここ八和田小学校(最初は国民学校)と中学校(現在はない)に9年間通ったの
で、当時はいつも見ていた風景です。
ちなみに、私が初めて山に登ったのが笠山で、昭和26年(1951)5月5日のこど
もの日でした。友人2人と歩いて4㎞の小川町の中心街を抜けて、さらに槻川沿いの道路
を15㎞前後行ったはずでなので、往復では30㎞を越える行程だったかと思われます。
小学校近くの道路にあった小川町のマンホールは、町の花・フクジュソウのデザイン。
小川町上横田(かみよこた)にある輪禅寺は、曹洞宗の禅寺です。山門の格好良い松。
山門前には幾つかの古い石仏が並んでいますが、そのひとつ。左側がかけてしまったよ
うですが文字が刻まれています。
こちらは寛政6年(1794)造立のもの。
山門を入って左手の、ハクモクレンが花を見せ始めていました。
その横には、まだ咲き残る白梅が。
右手には、最近作られた千体観音堂があります。
奥に整然と並ぶ千体の観音像は焼物作りで、高さ20㎝くらいでしょうか。
参道を挟んで相対する辺りには、古いお地蔵さんが2体並んでいます。
正面の本堂、左手前のソメイヨシノのつぼみはまだ固いままでした。
輪禅寺は、武田信玄の甥(おい)武田信俊が父・信実(信玄の異母弟)の冥福を祈るた
めに造営したと伝えられているようです。
武田家は、天正10年(1582)天目山の戦いで織田信長軍に敗れて滅亡したのです
が、信俊は織田郡の乱入寸前、夫人と母を伴い甲府を脱出して信州に身をひそめたとか。
その後、徳川家康が甲州入りして武田の旧臣の採用を呼びかけ、信俊も登用されて天正
19年(1591)に2000石の城主として武州金窪(児玉郡上里町)に赴任し、着任
後、亡父の菩提寺としてここ輪禅寺を創建したようです。
輪禅寺は、信実の法名「輪禅寺殿玉輪一機大居士」にちなむ寺号なのです。
本堂の左手が墓地になっていますが、その中心部の一帯が武田家の墓域になっていて、
初代信実、2代信俊をはじめ10代信禄までの墓が並んでいます。
信俊の孫である4代信貞は振農殖産に力を注ぎ、上横田地区においても大沼や濁沼(に
ごりぬま)など大小9か所のため池や用水路を築造して、36余町歩の水田をに用水を送
り、干害の憂いをなくした名君で、りっぱな農地の基礎ができあがったとのこと。
上横田には多くの沼があることは知っていましたが、武田の殿様が作られたとのことは、
今日本堂でいただいた「八和田公民館だより」の「史跡探訪 武田氏と輪禅寺」記事コピ
ーで知りました。上に記した武田家と輪禅寺のことも、同じ記事の内容を引用させてもら
いました。
今日は少し風がありましたが暖かな日となり、よい墓参日和でした。
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毎年春と秋の彼岸には、父母の眠る埼玉県小川町の輪禅寺(りんぜんじ)に墓参に行っ
ているのですが、昨年秋の彼岸は思いがけず腹痛で取りやめたので、今日は1年ぶりです。
墓に行く前に、菩提を守ってくれている弟の自宅に向かう途中、八和田(やわた)小学
校前の高台から外秩父の名峰、堂平山(どうだいらさん・876m)と笠山(かさやま・
837m)を眺めました。左が堂平山、右が笠山です。
私は、ここ八和田小学校(最初は国民学校)と中学校(現在はない)に9年間通ったの
で、当時はいつも見ていた風景です。
ちなみに、私が初めて山に登ったのが笠山で、昭和26年(1951)5月5日のこど
もの日でした。友人2人と歩いて4㎞の小川町の中心街を抜けて、さらに槻川沿いの道路
を15㎞前後行ったはずでなので、往復では30㎞を越える行程だったかと思われます。
小学校近くの道路にあった小川町のマンホールは、町の花・フクジュソウのデザイン。
小川町上横田(かみよこた)にある輪禅寺は、曹洞宗の禅寺です。山門の格好良い松。
山門前には幾つかの古い石仏が並んでいますが、そのひとつ。左側がかけてしまったよ
うですが文字が刻まれています。
こちらは寛政6年(1794)造立のもの。
山門を入って左手の、ハクモクレンが花を見せ始めていました。
その横には、まだ咲き残る白梅が。
右手には、最近作られた千体観音堂があります。
奥に整然と並ぶ千体の観音像は焼物作りで、高さ20㎝くらいでしょうか。
参道を挟んで相対する辺りには、古いお地蔵さんが2体並んでいます。
正面の本堂、左手前のソメイヨシノのつぼみはまだ固いままでした。
輪禅寺は、武田信玄の甥(おい)武田信俊が父・信実(信玄の異母弟)の冥福を祈るた
めに造営したと伝えられているようです。
武田家は、天正10年(1582)天目山の戦いで織田信長軍に敗れて滅亡したのです
が、信俊は織田郡の乱入寸前、夫人と母を伴い甲府を脱出して信州に身をひそめたとか。
その後、徳川家康が甲州入りして武田の旧臣の採用を呼びかけ、信俊も登用されて天正
19年(1591)に2000石の城主として武州金窪(児玉郡上里町)に赴任し、着任
後、亡父の菩提寺としてここ輪禅寺を創建したようです。
輪禅寺は、信実の法名「輪禅寺殿玉輪一機大居士」にちなむ寺号なのです。
本堂の左手が墓地になっていますが、その中心部の一帯が武田家の墓域になっていて、
初代信実、2代信俊をはじめ10代信禄までの墓が並んでいます。
信俊の孫である4代信貞は振農殖産に力を注ぎ、上横田地区においても大沼や濁沼(に
ごりぬま)など大小9か所のため池や用水路を築造して、36余町歩の水田をに用水を送
り、干害の憂いをなくした名君で、りっぱな農地の基礎ができあがったとのこと。
上横田には多くの沼があることは知っていましたが、武田の殿様が作られたとのことは、
今日本堂でいただいた「八和田公民館だより」の「史跡探訪 武田氏と輪禅寺」記事コピ
ーで知りました。上に記した武田家と輪禅寺のことも、同じ記事の内容を引用させてもら
いました。
今日は少し風がありましたが暖かな日となり、よい墓参日和でした。
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