ランシモ

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母の49日が終わった

2021-12-20 15:04:08 | 日記・エッセイ・コラム

母の49日が滞りなく終了した。

母は持病がなかったので最後まで頭はしっかりしていたが、今年8月にベットから転げ落ちたのがきっかけで寝たきりになり10月8日に天寿を全うした。

つい今年の7月に小平の畑でとれたトウモロコシをテーブルに置いておいたら、見つけて自分で包丁で切り美味いと食べていた。

昔の人は食生活が良かったのか長寿です。

戦後間もない昭和に私は生まれた。

高田の馬場に陸軍の射撃練習場が子供の頃残っていた。

私が生まれた家は陸軍の練兵場を不法占拠して造ったバラック家だった。

高田の馬場で私が生まれそうになったので母はリヤカーに乗せられて渋谷広尾の日赤病院へ向かった。

ところが私が母の腹から出るのが早くて、渋谷をすぎ恵比寿あたりで限界になり産婆さんに駆け込んだ。

日赤病院にたどり着かなかったのだ。

車など使える時代じゃなかった。

新宿に新築した家で親族が集まった。

私は手前右から2人目。

母は後ろ真ん中。

母は戦争中は広島の軍部でタイピストをしていた。

いわゆる戦時の秘密文書を作成していたのだ。

当時としては女性としてエラく進歩的な仕事をしていた。

父の実家は広島の向原で、芸備線の汽車に乗って13個目ぐらいなので、母は軍部で働いていたので広島住まいだったのかもしれない。

東京にいた親族はみな戦火を逃れて広島に疎開していた。

広島向原の山のどんづまりの農家(父実家)はさぞかし賑やかになっていたことだろう。

東京渋谷生まれのシティガールの母は広島の山の中に移って大変だっただろう。

それで、広島に原爆が落とされた時は、母も伯父・叔母たちは原爆を目撃していた。

広島が大変なことになったようだと、焼け野原の広島に救助に向かった。

その悲惨な光景は叔母から何度も聞かされている。

伯父・叔母たちは原爆手帳を持っているが発病しなかったのが幸いです。

広島近くの岩国の錦帯橋でいとこ達を父が撮った写真です。

私は左から2人目の子供。

東京から広島に行く時は「急行あき」に乗り1昼夜ゆられて行った。

左右に写っている叔母2人は100歳を超えているけど今でも健在です。

その写真左に写っている叔母に母の49日が無事終わったことを報告しに山中湖までいってきた。

叔母は100歳を超えても足はしっかりしているし、頭もボケていない。耳が遠くなっただけのようです。

母が亡くなって悲しいということはない。

長生きしていただいてありがとう、という気持ちです。

今更ながら、子供は親に何もできないのだなーと感じたしだいです。

最後の数年にどこにでも好きなところに旅行してくれと旅費を出したことぐらい、、、かな。

親父が亡くなっても何も感じなかったが、母が亡くなった時は悲しみじゃないが、何か大きなものがなくなった感じ。

上の世代が亡くなって、これからは私より下の世代を引っ張って行くだけだ。

15年ほど前に引退した親父と母を連れて箱根の温泉に行った時のもの。

カラッと晴れていいショットが撮れた。

この写真を母の遺影にしました。

親孝行などあまりできなかった、、、一緒に連れて行った温泉旅行は数えるほどだもの。

2021年12月28日 遺品整理して父の10代の頃の表彰状が出てきた

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/91926bddf788c797dc4473d3f30959df

2019年12月 父の形見の懐中時計Watex をオーバーホールした

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/5ef947f54b7364f2cd2cd965dc48bb90

2018年7月 納戸から軍刀が出てきた

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/874b0d6517dd93fba5821ac013ade63a

コメント
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