館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

白梅学徒隊とバクナーの死。

2022-12-27 04:59:02 | 旅は続く




3日目のメイン企画は沖縄第二高女「白梅学徒隊」の足跡を追うだった。ひめゆりもそうだが、整備され資料も多いので、戦跡巡りでは、俺の温めている企画の柱の一つだ。今回は、後述つするが、新しい発見もある、うれしかった。
今は松山公園になっている場所が、彼女たちの学び舎が有った場所だ。



いつもお世話になっている、個人タクシー運転手氏の大城さん。



有名な写真・・・獅子に隠れながら、日本軍陣地を攻撃する米兵だ。





弾痕の跡生々しい、その獅子に立ち、日本軍の陣地を眺める。







第24師団第一野戦病院豪跡・・・・周辺に陣取る日本軍・・この壕ではその日本軍の負傷兵の、手術やら介護が行われていた。
従軍の看護は「白梅学徒」が行っていた。



階段下右が、病院豪入り口。遠方(ったって・・直線距離で300mか?)小高い森が、先ほどの、米軍が占拠した「富盛(ともり)の大獅子」が地座するばしょだ。
こんな距離で、狙われたら、ひとたまりもないだろう、戦慄が走る場所だ。









僕らは、南部へ敗走した第24師団と、従軍した白梅を追って、「白梅学徒隊終焉の地」へ向かった。
その終焉の地のわずか3・400メートルの小高い丘にやってきた。

バクナー中将(没後大将となる)・・・沖縄米軍の最高司令官が24師団に属する、「山形の部隊」に狙撃されたのだ。6月18日・・・日本軍の組織的戦闘が終わる6月23日までわずか7日の時であった。そのバクナーの慰霊碑に登る。
1945年、バックナーは沖縄方面連合軍最高指揮官たる第10軍司令官となる。2ヶ月以上に渡り第10軍は日本陸軍第32軍(司令官・牛島満中将[)を基幹とする日本軍沖縄守備部隊と激烈な戦闘を展開した。
このバクナーの死は、「弔い合戦」を誘発し、恐怖の7日間で、沢山の住民や学徒隊の悲劇を生むのであった。







バクナーの丘の米軍陣地に対峙した、山形の部隊の慰霊碑。歩いて3分ぐらいの場所だ。







山形の碑から、東へ2分・・200mか?ここに「白梅の塔」・・彼女たちの自決の壕などが、口を開けている。
大きくて立派な「白梅の塔」に隠れるように、戦後ほどなく、生き残った白梅たちが、材も物もない時建てた、本来の碑がある。
「生き残ってしまったことの贖罪」・・・が、碑からこぼれ出ている気がするのだ。





塔のわきに下の壕と呼ばれる、終焉壕。





山形の碑から、左奥の荒れ地を進むと、林の中に「上の壕」がある。

ひめゆりを訪ねたら、車でわずか20分ぐらいか?ここも、現地に立ってみることを僕は勧める。のだ・・・・

白梅学徒隊・・動員数46名・犠牲者17名。


こうして、3日目のメイン企画は終了したのだった・・・・

26日の2m圏内接触者。

*打合せ・・4名。
*立ち話・吉・高・・2名
*タバコ屋べーべー・1名。
*ワクチン医者・看護師・4名。
*濃厚接触・・・女房。
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