館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

改めてロストの仲間達へ!フィールドフォーク・・・彼のこの提唱が日本のフォークを変えた。

2015-02-15 06:57:32 | 笠木透さんのこと。
彼の残した言葉を頼りに、フォークソングのことを書こうと思ったのだが、まったく、筆が進まない・・・
大それた野望があるわけではないが、進まない・・・ため息ついて、ふうっ・・・・と・・・

誰に書こうとしてるんだ?生意気に・・・?

まずは、僕自身にだが・・・

ロストで笠木さんの近いところに居たのは僕だ。メンバーの皆が、フォークソングを歌うようになる前から、僕は彼と会い、聴き続けていたのだからね。ロストの皆は、彼のことをもっと知りたかったようだが、もはや、彼の言葉をその場で聞く機会を失ってしまった。
そうだよなぁ・・・監督の僕が、彼のことを、ロストのメンバーに、知ってることを伝えるのは大事で、今やるべきことだな・・と、思った。

ロストに向けて・・・これなら、書けそうな気がしてきたのだった。

僕はこれから、1年くらいかけて、いろんな彼にまつわる話を書こうと思っている。




こんな雑誌に、彼が登場し、インタビューを受けている。



日本の伝説のように語られる「全日本フォークジャンボリー(中津川フォークジャンボリー)」についてだ。

当時、中津川労音で仕事をしていた、笠木透が、このジャンボリーの仕掛け人であったのは、有名な話だ。


貴方が、70年代のフォークソングと聞いて、思い出しそうなシンガーやグループは、まず、これに出ていると僕は思う。



フォークジャンボリーの創造の思い・・・その「矛盾」・・・
ここから、彼の提唱した「フィールドフォーク」という概念と実践が始まったように思う。まあ、かれもそのようにあちらこちらで書いている。




1969年から71年まで3年行われた「中津川フォークジャンボリー(全日本フォークジャンボリー)」は2回目までに作った結構な借金、その返済のために3回目が行われ(彼の談である・・)、「お金になるフォーク」が一世を風靡することになる。ブームであったから、そこに「権力に謀反する・物申す」原点が希薄になって、ブームが去ると、やがてニューミュージックに鞍替えしたりと、プロの多くのフォークソングは絶滅危惧状態になるのだった。
まあ、Yたくろうなどの、罪は深いか?

写真のフォークス時代のソングブックには、以下の彼の言葉が載っている。




このフォークソングへの確固たる信念が、こんなに早い時期から彼によって提唱されたことは、覚えておかなければならない年月であろう。

そして、彼は死ぬまで、その信念が揺るぎ、おぼつかなることは無かったのだからね。


歌は本来、無名の人々、それは農民や、きこり、漁民と言った人々もものだった・・
やがて、西洋から入った音楽と教育で、そうしたものが否定され、忘れ去られていった・・
やがて音楽は専門家の物になって行って、民衆は自らの歌を忘れてしまっていた・・
今、フォークは民衆に帰っていると、考えるといい・・・
専門家の作る商品のような歌ではなく、土地に生き、そこで暮らす人々が必要な歌を、自らが作る時代だ・・・
これが、フィールド・フォークだ・・・

こんな話を何度か僕は彼から聞くことになる。

そして、深く同意した。

館林ロストの原点はここにあり、まさに手間暇かけて、自らの手で作った、「歌う場」・・あかんべ山コンサートはこの原点から始まったのだった。

掲げるものは「自分たちの音楽の場は自分たちで作ろう!」そして石垣りんさんの「地方」という詩だった。


35年も歌ってきたのだから、もう、残りの命数を数えることもないだろう・・・息絶えそうな時、どんな歌を口ずさむか?楽しみにしようじゃないか?
コメント (6)
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