館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

笠木透・・残された膨大な音源と文字・・・僕が、ロストの皆に、伝えるべきことなんだろうねぇ。

2015-02-04 07:18:58 | 笠木透さんのこと。


このおっさんは、「つぶく刀をもってこい!」などといって、峯さんに切りかかったのだった・・・(そもそも、持って来いといわれて持ってくるのが変?と言われたが・・)

いやさ・・「われここにあり」の1曲「いつの日か」は、当初「この日本の打ちこわし」という曲目にしようと思っていた彼だったが、峯さんが、あまりの激しい言葉に「笠木さん、あれは激しすぎるよ」と注文をつけ、笠木さんは、熟考の末変えたのだった・・・作家が素人の意見に耳を傾けるか・・・

「おまえのせいで、悩み考える時間が増えてしまったではないか!」と、切りかかったのだった・・・峯さんものともせず、タバコに火をつける余裕か?



膨大な、入手は探せば可能な、本・CD・楽譜集(どうも、入手困難もあるらしいが・・まあ、コピーとか、ヤキヤキは簡単だ・・)を残した・・・

写しわすれたが、インタビューを受けた雑誌や、出版物も、結構ある。



彼が、全日本フォークジャンボリーをたくらみ、その教訓から、フィールドフォークという理念を立ち上げた時、まだ、原発企業の東芝EMIが出した、彼の立脚点であったグループ、我夢土下座(カムトゲザー)のCDなどもあるが、VOL1・2は辛うじてCDになっているが、もっとも彼の心情に近い3はCDになっていないらしい・・・
まあ・・・子供向けのアルバムだから、売れないと切りすてらっれたか・・・・
どれも珠玉・・・「海に向かって」「私の子供達へ」「青春の歌」「めぐりあい」「わが大地のうた」「川のほとり」「小さな町」「私に人生といえるものがあるなら」「丘の上の校舎」・・・などなど、名曲・名演(以降、この音源を超えるものが無いものが多い・・僕の主観だが)。


ついでに言えば、LIVE’84は、当時僕が入手したカセット音源をCDとして、保存のために作った(こうした技をもつ、友人に頼んだが・・・)作った物。

この年代は、結節点で、やがて彼は、我夢土下座を離れ、フォークスを結成する・・・・

まぁ・・・デジタル化してあれば、請われれば、配布は可能だ。



問題は、こいつだよなぁ・・・・・




我夢土下座(かむとげざー)から離れ、一人で全国を回り始めた時期から、フォークス結成・・・その頃、関東に来れば、コンサート会場で堂々と!録りまくった(俺が・・)音源の数々・・
発表すぐの「これがすべての終わりとしても」などあって、やはりデジタル化すべきなんだろうなぁ・・と、(実は笠木さんから、CDにしてくれと、いわれていたのだが・・・)もんもんとしているのだった・・・カセットをCDにする技を僕は持っていないのだった・・・



パンフなども結構残っている・・・



などなど・・・・



こいつは騙された!だまされたったら・・・騙された。

彼がたくらんだ「憲法フォークジャンボリー」・・・上野の水上音楽堂。

その1年前に増田さんから電話が来た・・・

「中央に集まれとは、お前達に言いたくはないが、今回だけは結集してくれ」「そうした民衆の護憲の行動を・・数の力を示さないと9条がやられる!(第一次安倍内閣の時だ)」
「地方の小さな町で小さな護憲のコンサートが行われる」「やがて、その小さなコンサートの主体たちが、中央に集まる」
それが今力になる!と・・・

「もう、日本のあちこちで、アマチュアの小さなコンサートが開かれている」「館林でもやってくれ!」

1度は断ったが(あかんべ山という、僕らのライフワークのようなコンサートの準備只中だったからね。)

それが終わったのを見計らったように、また、「やれ!」と電話が来た・・・

あかんべ山の余韻ののこるまま、あかんべ山の主要なグループを集め、このコンサートを行った。
150の会場は、客で一杯になった。

打ち上げで・・・・

「どんなところで、コンサートが行われているんですか?」の僕の問いに・・

「いや、お前達が最初だ・・・これから、あちこちで始まるに違いない!」


まあ、さすが笠木透だわな・・・

純真なアマチュアのたぶらかし方はさすがであった。。。。。。。。



コメント (8)
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