縦10センチ、横20センチの
ハングル文字で書かれた禁煙プレートを事務所の壁に貼り、ご満悦の藤村。
夫は衝撃から立ち直り、プレートを指差してたずねた。
「藤村さん、この国の人?」
藤村はうなづいてから、昔、親と一緒に帰化して日本国籍になったと答えた。
あちらの人の多くは、自分が帰化していると言うものだ。
実はそうでない場合が多いので信用できないが
とりあえず藤村は帰化を強調した。
「入社の時、ノーマークだったん?」
夫は素朴な疑問を投げかける。
「新卒採用と違って、中途採用は提出物がユルい。
戸籍謄本がいらんし、誰にも聞かれんかったし」
「でも、このプレートはマズいんじゃないの?」
「何で?どこが?」
藤村があんまり不思議そうに問うので
夫は自分の方が間違っているような錯覚にとらわれたという。
しかし言うべきことは言わなければならないと思い直して
さらに言った。
「本社が半島資本と誤解されたら、社長が困るじゃろう」
経営者にとって、資本の出処は大切だ。
資本が国外、特に南北にかかわらず隣国と勘違いされた場合
納税を免れていると思われてしまう。
高い税金を払いながら営業する日本の企業からは
同じ苦しみを分かち合う仲間ではないと思われて、相手にされなくなる。
マウントを取ったつもりの会社を
祖国の色に染めたい気持ちはわからないでもないが
こうした配慮に欠けるのがザンネンなところであり、嫌われる原因だ。
藤村は、意味がわからないといった様子で
「本社でも禁煙を推奨しとる」
とうそぶき、話題をすり替えようとした。
都合が悪くなるとやる、彼らお決まりの手だ。
これに対抗する語彙を持ち合わせない夫は、追求をやめるしかなかった。
河野常務が見たら、激怒して引っ剥がすだろう…
夫はその楽しみに期待する方針に切り替え
我々もまた、そっちの方が面白いので待つことにした。
来客の中には「ここも国際的になったな」と
藤村にあてこする者もいたが、皆、異様な雰囲気を感じ取るのか
タバコは吸わず、早めに帰るようになった。
夫の客を撃退したい藤村の思惑は、ひとまず達成されたといえよう。
で、肝心の常務だが、未だハングルのプレートを見ていない。
盆前に腰の手術を受け、入院しているからだ。
予後は悪く、現在も入院中で、復帰できるかどうかも怪しくなってきた。
復帰しても、以前のような勢いは無さそう。
藤村は、お目付役の常務がいないことに乗じて数々の暴挙をはたらき
せっせと自身の王国作りをしているのだった。
その一方で色々な人に向け、力無くつぶやくことを忘れない。
「常務は大丈夫かなあ。
万一のことがあったら、どうしよう。
世話になってるから心配」
これを生来の二面性ととらえるか、計算づくの芝居ととらえるかは自由だが
かの民族における大きな特徴であることは確かだ。
ともあれ藤村の本来の国籍が判明したことで、私は安堵した。
ヤツが何かやらかすたびに、いちいち驚いたり呆れる必要が
完全に無くなったからだ。
全部“民族性”でカタがつけば
相手の言動に頭をひねらなくていいので時短になる。
夫もこの認定により、精神的にかなり楽になった様子で
表情が明るくなった。
話を仕事に戻そう。
オイル漏れのアクシデントのため
現場では漏れたオイルの後始末が行われるので
商品の搬入は翌日の金曜日から改めてやり直すことになった。
その金曜日には、始業前に現場監督以下数名が事務所を訪れ
全車両の運転手を集めて2時間ほど、注意と安全講習が行われた。
それが終わって仕事にかかったが、その日は何事もなく終わった。
オイル漏れと翌朝の安全講習で、工事は遅れが出ている。
そこで土曜日は、休日返上で仕事をすることに決まった。
そこまではいい。
普通だ。
しかし、ここからが藤村。
遅れを取り戻そうと、たくさんのチャーターを呼んだ。
通常なら、彼がそんなに集められるはずはないが
土曜日なので、たいていの会社は休み。
予定が入っていないため、運転手もダンプも空いている。
藤村は休日手当を多めに付けると言って、集められるだけ集めた。
高い手当が付き、しかも交通量が少ない土曜日で
現場は燃料を食わない近距離と聞けば、話は人から人へ伝わって
各地から20台のダンプが集まった。
初めての大漁に、藤村は大喜び。
しかし彼は、肝心なことを忘れていた。
商品の積込みをする重機オペレーターが、夫1人しかいないということを。
そして、もっと肝心なことも忘れていた。
積込みをする会社も荷を下ろす現場も、さほど広くないということを。
藤村は前日の倍のダンプを集めてピストン輸送すれば
遅れを取り戻せると思い込んでいた。
けれどもそれは、シロウトの浅はかさ。
単純計算で何とかなる世界ではないのだ。
今回の現場は、会社と近い。
次々に出ては次々に戻って来るため
会社の敷地とその周辺は積込みの順番を待つダンプで渋滞し
現場でも荷下ろしの順番を待つダンプで渋滞した。
2倍のダンプを集めたって、待ち時間が長くなってモタつくだけ。
必要な商品の数量だけでなく、現場までの距離と往復時間
大型ダンプを受け入れて送り出すスペースの限界や
積込みにかかる時間を考えて、発注するチャーターの台数を決めなければ
仕事がはかどるどころか、かえって遅れてしまう。
そして最も重要なのは、利益だ。
チャーターの日当は、1台につき4万円。
日当を支払う方は、商品を効率良く搬送させて
それ以上の利益を出さなければ赤字になる。
滅多やたらと呼び集めても、効率が悪ければ利益は出ないし
日当を惜しんで少な過ぎても、数字が上がらないので利益は出ない。
台数の決定こそが、利益を生む鍵だ。
けれどもそれには、知識と経験が不可欠。
藤村のようなシロウトが、勘やフィーリングでこなせる芸当ではない。
今回の現場の場合、チャーターは7台が妥当。
7台を効率良く動かせば、こと足りる。
前日の10台でも多過ぎるが
チャーターの支払いは本社がまとめて行うので、藤村は無関心だ。
彼のように「何台集めた!」なんて達成感に浸るのは、愚の骨頂である。
いつものことながら、藤村の失策によって被害を受けたのは夫。
1日中、食事もできずトイレにも行かず、ひたすら積込みに励む羽目となる。
予期せぬ状況に、藤村はオロオロするばかりだ。
彼には免許が無いので、何の役にも立たない。
しかし免許があったところで、何の役にも立たない。
夫が鬼の形相をしているのを見た息子たちは
それぞれダンプを降りて交代すると申し出た。
しかし積込みのスピードでは誰も夫にかなわないため
何の解決にもならず、手をこまねくしかなかった。
そして夕方、前代未聞の積込み回数をカウントして、夫は解放された。
藤村は恐がって、夫に近づかない。
だから珍しく夫の方から近づいて言った。
「何か言うことがあろうが」
藤村はきょとんとして、返した。
「お疲れ様でした」
ここは普通、謝るところだろうが
失敗してもギリギリまで部外者を装う根性だけは見上げたものだ。
夫は頭にきて言った。
「この次、おんなじことしやがったら、ただじゃおかんど。
ワシはいつ辞めてもええ。
じゃが、お前も無傷じゃあ済まさんけんの」
すいません…すいません…と、蝿のように両手を擦り合わせる藤村だった。
《続く》
ハングル文字で書かれた禁煙プレートを事務所の壁に貼り、ご満悦の藤村。
夫は衝撃から立ち直り、プレートを指差してたずねた。
「藤村さん、この国の人?」
藤村はうなづいてから、昔、親と一緒に帰化して日本国籍になったと答えた。
あちらの人の多くは、自分が帰化していると言うものだ。
実はそうでない場合が多いので信用できないが
とりあえず藤村は帰化を強調した。
「入社の時、ノーマークだったん?」
夫は素朴な疑問を投げかける。
「新卒採用と違って、中途採用は提出物がユルい。
戸籍謄本がいらんし、誰にも聞かれんかったし」
「でも、このプレートはマズいんじゃないの?」
「何で?どこが?」
藤村があんまり不思議そうに問うので
夫は自分の方が間違っているような錯覚にとらわれたという。
しかし言うべきことは言わなければならないと思い直して
さらに言った。
「本社が半島資本と誤解されたら、社長が困るじゃろう」
経営者にとって、資本の出処は大切だ。
資本が国外、特に南北にかかわらず隣国と勘違いされた場合
納税を免れていると思われてしまう。
高い税金を払いながら営業する日本の企業からは
同じ苦しみを分かち合う仲間ではないと思われて、相手にされなくなる。
マウントを取ったつもりの会社を
祖国の色に染めたい気持ちはわからないでもないが
こうした配慮に欠けるのがザンネンなところであり、嫌われる原因だ。
藤村は、意味がわからないといった様子で
「本社でも禁煙を推奨しとる」
とうそぶき、話題をすり替えようとした。
都合が悪くなるとやる、彼らお決まりの手だ。
これに対抗する語彙を持ち合わせない夫は、追求をやめるしかなかった。
河野常務が見たら、激怒して引っ剥がすだろう…
夫はその楽しみに期待する方針に切り替え
我々もまた、そっちの方が面白いので待つことにした。
来客の中には「ここも国際的になったな」と
藤村にあてこする者もいたが、皆、異様な雰囲気を感じ取るのか
タバコは吸わず、早めに帰るようになった。
夫の客を撃退したい藤村の思惑は、ひとまず達成されたといえよう。
で、肝心の常務だが、未だハングルのプレートを見ていない。
盆前に腰の手術を受け、入院しているからだ。
予後は悪く、現在も入院中で、復帰できるかどうかも怪しくなってきた。
復帰しても、以前のような勢いは無さそう。
藤村は、お目付役の常務がいないことに乗じて数々の暴挙をはたらき
せっせと自身の王国作りをしているのだった。
その一方で色々な人に向け、力無くつぶやくことを忘れない。
「常務は大丈夫かなあ。
万一のことがあったら、どうしよう。
世話になってるから心配」
これを生来の二面性ととらえるか、計算づくの芝居ととらえるかは自由だが
かの民族における大きな特徴であることは確かだ。
ともあれ藤村の本来の国籍が判明したことで、私は安堵した。
ヤツが何かやらかすたびに、いちいち驚いたり呆れる必要が
完全に無くなったからだ。
全部“民族性”でカタがつけば
相手の言動に頭をひねらなくていいので時短になる。
夫もこの認定により、精神的にかなり楽になった様子で
表情が明るくなった。
話を仕事に戻そう。
オイル漏れのアクシデントのため
現場では漏れたオイルの後始末が行われるので
商品の搬入は翌日の金曜日から改めてやり直すことになった。
その金曜日には、始業前に現場監督以下数名が事務所を訪れ
全車両の運転手を集めて2時間ほど、注意と安全講習が行われた。
それが終わって仕事にかかったが、その日は何事もなく終わった。
オイル漏れと翌朝の安全講習で、工事は遅れが出ている。
そこで土曜日は、休日返上で仕事をすることに決まった。
そこまではいい。
普通だ。
しかし、ここからが藤村。
遅れを取り戻そうと、たくさんのチャーターを呼んだ。
通常なら、彼がそんなに集められるはずはないが
土曜日なので、たいていの会社は休み。
予定が入っていないため、運転手もダンプも空いている。
藤村は休日手当を多めに付けると言って、集められるだけ集めた。
高い手当が付き、しかも交通量が少ない土曜日で
現場は燃料を食わない近距離と聞けば、話は人から人へ伝わって
各地から20台のダンプが集まった。
初めての大漁に、藤村は大喜び。
しかし彼は、肝心なことを忘れていた。
商品の積込みをする重機オペレーターが、夫1人しかいないということを。
そして、もっと肝心なことも忘れていた。
積込みをする会社も荷を下ろす現場も、さほど広くないということを。
藤村は前日の倍のダンプを集めてピストン輸送すれば
遅れを取り戻せると思い込んでいた。
けれどもそれは、シロウトの浅はかさ。
単純計算で何とかなる世界ではないのだ。
今回の現場は、会社と近い。
次々に出ては次々に戻って来るため
会社の敷地とその周辺は積込みの順番を待つダンプで渋滞し
現場でも荷下ろしの順番を待つダンプで渋滞した。
2倍のダンプを集めたって、待ち時間が長くなってモタつくだけ。
必要な商品の数量だけでなく、現場までの距離と往復時間
大型ダンプを受け入れて送り出すスペースの限界や
積込みにかかる時間を考えて、発注するチャーターの台数を決めなければ
仕事がはかどるどころか、かえって遅れてしまう。
そして最も重要なのは、利益だ。
チャーターの日当は、1台につき4万円。
日当を支払う方は、商品を効率良く搬送させて
それ以上の利益を出さなければ赤字になる。
滅多やたらと呼び集めても、効率が悪ければ利益は出ないし
日当を惜しんで少な過ぎても、数字が上がらないので利益は出ない。
台数の決定こそが、利益を生む鍵だ。
けれどもそれには、知識と経験が不可欠。
藤村のようなシロウトが、勘やフィーリングでこなせる芸当ではない。
今回の現場の場合、チャーターは7台が妥当。
7台を効率良く動かせば、こと足りる。
前日の10台でも多過ぎるが
チャーターの支払いは本社がまとめて行うので、藤村は無関心だ。
彼のように「何台集めた!」なんて達成感に浸るのは、愚の骨頂である。
いつものことながら、藤村の失策によって被害を受けたのは夫。
1日中、食事もできずトイレにも行かず、ひたすら積込みに励む羽目となる。
予期せぬ状況に、藤村はオロオロするばかりだ。
彼には免許が無いので、何の役にも立たない。
しかし免許があったところで、何の役にも立たない。
夫が鬼の形相をしているのを見た息子たちは
それぞれダンプを降りて交代すると申し出た。
しかし積込みのスピードでは誰も夫にかなわないため
何の解決にもならず、手をこまねくしかなかった。
そして夕方、前代未聞の積込み回数をカウントして、夫は解放された。
藤村は恐がって、夫に近づかない。
だから珍しく夫の方から近づいて言った。
「何か言うことがあろうが」
藤村はきょとんとして、返した。
「お疲れ様でした」
ここは普通、謝るところだろうが
失敗してもギリギリまで部外者を装う根性だけは見上げたものだ。
夫は頭にきて言った。
「この次、おんなじことしやがったら、ただじゃおかんど。
ワシはいつ辞めてもええ。
じゃが、お前も無傷じゃあ済まさんけんの」
すいません…すいません…と、蝿のように両手を擦り合わせる藤村だった。
《続く》