その日は早朝から、何となく胸騒ぎがしていた。
病院の仕事は午後からだったので家にいたが
今日は休むことになるような予感がした。
妹から電話があったのは10時を回った頃だった。
「お父さんが死んだ!」
これだったのか‥曇り空を見上げて思った。
今から12年前の4月のことである。
当時72才の父は、医者と縁のない健康そのもの。
祖父から引き継いだ会社を5年前、人に譲ってからは
母と二人で静かに暮らしていた。
父はその日、友達とゴルフに行った。
グリーンに出て最初の一打を打ったところで倒れたという。
救急車で病院へ運ばれたが、すでにこと切れていた。
ゴルフ場から連絡を受けた母は、同じ町内の保育園に勤める妹を呼び出した。
早退した妹は母を連れ、車で1時間ほどの病院へ駆けつけた。
医師の話によると、脳にも心臓にも問題は見つからず
死因は特定できないという。
「一応変死なので、お望みであれば解剖します」
医師は言ったが、母は断って遺体を連れて帰る車を手配した。
妹が電話をかけてきたのは、その車を待っている時で
1時間後に実家で合流することにした。
実家に着くと父の遺体は戻っており、布団に寝かせたところだった。
ここで母は私を連れ、隣のAさん宅へ行った。
まず隣に知らせて挨拶するのだと思い、付いて行った。
出てきた奥さんに向けて、母はごく普通に言った。
「こんにちは。
うちのお父さん、死んで帰ったわよ」
これだけ言うときびすを返し、家に戻ったので
私も何が何やらわからないまま、後を付いて帰った。
母は冷静沈着な、肝の据わった女である。
突然の事態にうろたえて、あらぬことを口走るタイプではない。
これは尋常ならぬことがあるに違いないのだ。
しかしたずねるまでもなく、母は私に真相を話し始めた。
「わかってんのよ、何で急にお父さんが死んじゃったか。
死因はストレスよ」
もう何年も前から、父は隣の長男‥
つまりA子のお兄さんに意地悪をされていたという。
50才前後から精神を病み、何につけ父に文句を言っては
しつこくからんでくるようになったそうだ。
父はおとなしく優しい性質で
天地がひっくり返っても他人とトラブルを起こすタイプではない。
ただ、当たる相手は父しかいなかった。
賑やかだった駅前通りはさびれ果て、商売をしていた人々も死に絶えた。
近くの住民は、うちと隣しか残っていない。
そこでヤツは気丈夫な母より、おとなしい父をターゲットに選んだ。
父は、魅入られてしまったのだ。
相手は在日の精神病患者、誰が助けてくれよう。
耐えるしかなかった。
隣の兄妹の中で、唯一マトモに見えた長男の変貌に
両親は信じられない思いだった。
一度、母は隣の奥さんにたずねたことがある。
「どうしてご主人は、うちのお父さんに意地悪をするの?
お父さんが何をしたっていうの?」
奥さんはこう説明した。
「主人は、裏の土地が欲しかったんです」
うちと隣の共通の裏手に、地続きの小さな空き地があった。
元の持ち主はとうに亡くなり、相続した息子さんは遠くに住んでいる。
故郷に帰るつもりは無いので
今のうちに処分しておきたいということで
その息子さんから、うちか隣のどちらかに
この土地を買ってもらえないかと持ちかけられた。
隣は、金銭的な余裕が無いと断った。
うちの両親もいらなかったが、亡くなった先代とは懇意だったので
息子さんの頼みをきいて買ったといういきさつがあった。
「また土地か!」
これを聞いて、私が苦々しく思ったのは言うまでもない。
「主人は、裏の土地が欲しかったんです」
隣の奥さんの言ったことは、日本人から見れば
いじめる理由の説明になっていない。
しかし彼らにとって、嫉妬は正当な理由になる。
ここが民族間の埋められない溝であり
また、埋める必要のない溝であり、決して埋めてはならない溝なのである。
そしてあの日がやってきた。
早朝6時、おい!おい!と隣から声がする。
ヤツはこうして父を呼びつけるのが習慣になっていた。
父が裏庭へ出てみると、ヤツが窓から顔を出して言った。
「これ、どういうつもりなら!」
植木鉢の葉っぱが伸びて、隣の壁に触れそうになっていたのだった。
とっかかりは何でもいい。
本日の材料はこれだったというだけだ。
「ああ、ごめんね」
父は鉢を動かした。
するとヤツはさんざんののしったあげく
「その木を切れ!」
と指差して言った。
裏庭に植えていた、小ぶりな柿の木である。
「今日はこれから出かけるけん、帰ってから切るわ」
父はいつものようにあしらい、家に入ろうとしたが
この日、ヤツはいつもにも増して執拗に叫んだ。
「今切れ!すぐ切れ!」
奥さんが出てきて取りなすと、ますます激しくわめいた。
「大丈夫、すぐ切るよ」
父は奥さんに言うと、ノコギリを持って来て柿の木を切り倒した。
その間、ヤツは窓から監視を続けた。
柿の木が倒れると、ヤツはピシャリと窓を閉め
父は迎えに来た友達の車でゴルフに出かけた。
「お父さん、優勝して来てね!」
父の心境を察して、母は明るく手を振り
「うん、頑張ってくるよ」
父も笑って手を振った。
それが今生の別れとなった。
《続く》
いつもお越し下さって、ありがとうございます。
明日の6日は、gooブログのメンテナンスだそうで
ほぼ1日、お目にかかることができません。
どうかお元気でお過ごしください。
病院の仕事は午後からだったので家にいたが
今日は休むことになるような予感がした。
妹から電話があったのは10時を回った頃だった。
「お父さんが死んだ!」
これだったのか‥曇り空を見上げて思った。
今から12年前の4月のことである。
当時72才の父は、医者と縁のない健康そのもの。
祖父から引き継いだ会社を5年前、人に譲ってからは
母と二人で静かに暮らしていた。
父はその日、友達とゴルフに行った。
グリーンに出て最初の一打を打ったところで倒れたという。
救急車で病院へ運ばれたが、すでにこと切れていた。
ゴルフ場から連絡を受けた母は、同じ町内の保育園に勤める妹を呼び出した。
早退した妹は母を連れ、車で1時間ほどの病院へ駆けつけた。
医師の話によると、脳にも心臓にも問題は見つからず
死因は特定できないという。
「一応変死なので、お望みであれば解剖します」
医師は言ったが、母は断って遺体を連れて帰る車を手配した。
妹が電話をかけてきたのは、その車を待っている時で
1時間後に実家で合流することにした。
実家に着くと父の遺体は戻っており、布団に寝かせたところだった。
ここで母は私を連れ、隣のAさん宅へ行った。
まず隣に知らせて挨拶するのだと思い、付いて行った。
出てきた奥さんに向けて、母はごく普通に言った。
「こんにちは。
うちのお父さん、死んで帰ったわよ」
これだけ言うときびすを返し、家に戻ったので
私も何が何やらわからないまま、後を付いて帰った。
母は冷静沈着な、肝の据わった女である。
突然の事態にうろたえて、あらぬことを口走るタイプではない。
これは尋常ならぬことがあるに違いないのだ。
しかしたずねるまでもなく、母は私に真相を話し始めた。
「わかってんのよ、何で急にお父さんが死んじゃったか。
死因はストレスよ」
もう何年も前から、父は隣の長男‥
つまりA子のお兄さんに意地悪をされていたという。
50才前後から精神を病み、何につけ父に文句を言っては
しつこくからんでくるようになったそうだ。
父はおとなしく優しい性質で
天地がひっくり返っても他人とトラブルを起こすタイプではない。
ただ、当たる相手は父しかいなかった。
賑やかだった駅前通りはさびれ果て、商売をしていた人々も死に絶えた。
近くの住民は、うちと隣しか残っていない。
そこでヤツは気丈夫な母より、おとなしい父をターゲットに選んだ。
父は、魅入られてしまったのだ。
相手は在日の精神病患者、誰が助けてくれよう。
耐えるしかなかった。
隣の兄妹の中で、唯一マトモに見えた長男の変貌に
両親は信じられない思いだった。
一度、母は隣の奥さんにたずねたことがある。
「どうしてご主人は、うちのお父さんに意地悪をするの?
お父さんが何をしたっていうの?」
奥さんはこう説明した。
「主人は、裏の土地が欲しかったんです」
うちと隣の共通の裏手に、地続きの小さな空き地があった。
元の持ち主はとうに亡くなり、相続した息子さんは遠くに住んでいる。
故郷に帰るつもりは無いので
今のうちに処分しておきたいということで
その息子さんから、うちか隣のどちらかに
この土地を買ってもらえないかと持ちかけられた。
隣は、金銭的な余裕が無いと断った。
うちの両親もいらなかったが、亡くなった先代とは懇意だったので
息子さんの頼みをきいて買ったといういきさつがあった。
「また土地か!」
これを聞いて、私が苦々しく思ったのは言うまでもない。
「主人は、裏の土地が欲しかったんです」
隣の奥さんの言ったことは、日本人から見れば
いじめる理由の説明になっていない。
しかし彼らにとって、嫉妬は正当な理由になる。
ここが民族間の埋められない溝であり
また、埋める必要のない溝であり、決して埋めてはならない溝なのである。
そしてあの日がやってきた。
早朝6時、おい!おい!と隣から声がする。
ヤツはこうして父を呼びつけるのが習慣になっていた。
父が裏庭へ出てみると、ヤツが窓から顔を出して言った。
「これ、どういうつもりなら!」
植木鉢の葉っぱが伸びて、隣の壁に触れそうになっていたのだった。
とっかかりは何でもいい。
本日の材料はこれだったというだけだ。
「ああ、ごめんね」
父は鉢を動かした。
するとヤツはさんざんののしったあげく
「その木を切れ!」
と指差して言った。
裏庭に植えていた、小ぶりな柿の木である。
「今日はこれから出かけるけん、帰ってから切るわ」
父はいつものようにあしらい、家に入ろうとしたが
この日、ヤツはいつもにも増して執拗に叫んだ。
「今切れ!すぐ切れ!」
奥さんが出てきて取りなすと、ますます激しくわめいた。
「大丈夫、すぐ切るよ」
父は奥さんに言うと、ノコギリを持って来て柿の木を切り倒した。
その間、ヤツは窓から監視を続けた。
柿の木が倒れると、ヤツはピシャリと窓を閉め
父は迎えに来た友達の車でゴルフに出かけた。
「お父さん、優勝して来てね!」
父の心境を察して、母は明るく手を振り
「うん、頑張ってくるよ」
父も笑って手を振った。
それが今生の別れとなった。
《続く》
いつもお越し下さって、ありがとうございます。
明日の6日は、gooブログのメンテナンスだそうで
ほぼ1日、お目にかかることができません。
どうかお元気でお過ごしください。