事故が起きた4日目の朝、ママはいつも通りナミ様を送ってきた。
事務所で選挙カーが出発する午前8時を待っていたその時
中年の女性と若い男が、選挙事務所に駆け込んできた。
「今、うちの息子の車に当たりましたよね!」
「オマエ、当たったろう!」
憎しみに燃えた母とガキは
座っているママをのぞき込んでえらい剣幕だ。
ママはまさか自分に言われているとも知らず
まったりとお茶をすすっていた。
ご高齢のせいなのか、衝撃が無かったからか
狭い道路で離合した時、ママは接触に気がつかなかったようだ。
「逃げましたよね!それも笑いながら!」
母親はヒステリックに怒鳴った。
ママは何のことだかわからず、ニコニコしている。
「とぼけてもダメよ!警察に突き出しますからね!」
こういう時、候補以下、選挙カーの乗組員は関与しない。
うっかり口を出したら、8時に出発できなくなる。
相手が逆上しているため、もつれるのは目に見えており
「時間なのでさようなら」と逃げるわけにはいかないからだ。
出発の見送りのために訪れていた男性が
代わりにママに付き添って事故現場へ行った。
ナミ様は外にある選挙カーで、マイクのガーゼを交換中だった。
そのためこの一件を全く知らず、出発直前に聞いて驚いていた。
そう、ナミ様にとってガーゼ交換はイノチ。
風の音を拾わないためや、衛生管理のためという理由により
マイクの頭にガーゼをかぶせて輪ゴムで留め
てるてる坊主のようにするのが
ウグイスに古くから伝わる「ガーゼ信仰」である。
マイクの性能が進化した今は、昭和の忘れ物的行為に等しいが
車の振動で口紅が付くこともあるので、まんざら無駄な作業ではない。
これをナミ様は毎朝、粛々と行っておられるのだ。
さて、その夜。
ナミ様を迎えに来ていたママに話を聞くと
警察は来たものの、あまりにも軽い接触で
傷の確認ができなかったので事故扱いにならず
帰って行ったそうだ。
「相手の人は、私が笑いながら逃げたと言うけど
すれ違う時に会釈して通り過ぎただけなのよ。
横に乗っていたナミも、事故に気がつかなかったんだもの。
でも私が悪いと言うから、家に行って謝るつもり」
ママはこともなげに言った。
「当たった部分を塗装し直せと言ってるから
保険を使わずに直してもらおうと思って、見積もりを頼んだの」
「何てことを…」
私は必死で止めた。
「狭い道なんだから、どっちが悪いなんて簡単に言えないよ。
事故証明を取って、保険使わないとダメだよ。
あの親子、普通じゃないよ」
しかしママは平然と言う。
「大丈夫、大丈夫。
私は50を過ぎて免許を取ったから、事故には慣れてるの」
得意げに微笑むママ。
それから「あの時も…この時だって…」と、ママの長い武勇伝が始まる。
見ていた通行人が味方してくれた…私はこう啖呵をきってやった…
テーマこそ違えど「つまり世界は私の味方」状の物語が
できあがっているところは、うちの義母ヨシコと同じパターンだ。
こういうおばあちゃん、よくいる。
「保険もね、割引が無くなるから使わない方がいいって
下の娘が言うから」
ナミ様には独身で実家暮らしをしている
一つ違いの妹様がおられるのだ。
実家に生計を頼り、たまにウグイスをする長女のナミ様より
長年社会人を営んでいる妹様の方が
当然ながらママの信頼は厚い様子だった。
「ナミもね、こういう時だから穏便にすませた方がいいと言うし」
「こういう時だからこそ、きちんとしなきゃ」
「でも娘達がそう言うから。
渡る世間に鬼は無しって言うじゃない」
「今どきは、鬼の方が多いんだよ」
「大丈夫、心配してくれてありがとう」
バカ娘どもめ…私はいまいましかったが
母親と娘の結束は、周囲が思う以上に強くて深い。
ナミ様のおうちは父親を数年前に亡くした女所帯なので
母娘の絆は一層強度を増している。
何日か前に初めて会った私の言うことなんか、聞きやしないのだった。
翌朝…つまり選挙戦5日目。
相手の家に行ったのか、ママとナミ様にたずねると
昨日は相手の都合が悪かったので、今夜行くと言う。
「母親は看護師をしているそうだから
夜勤でもあったんじゃないかしら」
「今からでも遅くない、保険使ってプロに任せた方がいいよ」
「でもナミが保険は絶対ダメと言うから…」
私はナミ様にたずねた。
「あんた、マジか?」
「私は…」
ナミ様は口ごもった。
「保険を使うには…事故証明がいるでしょう…
警察へ行かないといけないでしょう…」
つまり先日の暴漢事件で年齢詐称が発覚したため
恥ずかしくて警察に行けないとおっしゃるのであった。
「刑事課と交通課は別の人よ。
嫌だったらママだけ行けばいいじゃん」
「でも…同乗者だし、母を一人で行かせるのもかわいそうだし…」
私はこの時点で説得をやめた。
世間知らずの娘の誤った判断に従い
喜んで地獄に落ちる母親は、うちにも一人いるじゃないか…
母娘で「人が悪い、人が悪い」と憎んでいれば時は経ち
やがて新しい問題が起きたら、前のことは忘れるのだ…
私はそれを目の前で30年以上も見てきたじゃないか…
そう自分に言い聞かせた。
ナミ様母娘が本当に地獄に落ちたのは、その夜であった。
事務所で選挙カーが出発する午前8時を待っていたその時
中年の女性と若い男が、選挙事務所に駆け込んできた。
「今、うちの息子の車に当たりましたよね!」
「オマエ、当たったろう!」
憎しみに燃えた母とガキは
座っているママをのぞき込んでえらい剣幕だ。
ママはまさか自分に言われているとも知らず
まったりとお茶をすすっていた。
ご高齢のせいなのか、衝撃が無かったからか
狭い道路で離合した時、ママは接触に気がつかなかったようだ。
「逃げましたよね!それも笑いながら!」
母親はヒステリックに怒鳴った。
ママは何のことだかわからず、ニコニコしている。
「とぼけてもダメよ!警察に突き出しますからね!」
こういう時、候補以下、選挙カーの乗組員は関与しない。
うっかり口を出したら、8時に出発できなくなる。
相手が逆上しているため、もつれるのは目に見えており
「時間なのでさようなら」と逃げるわけにはいかないからだ。
出発の見送りのために訪れていた男性が
代わりにママに付き添って事故現場へ行った。
ナミ様は外にある選挙カーで、マイクのガーゼを交換中だった。
そのためこの一件を全く知らず、出発直前に聞いて驚いていた。
そう、ナミ様にとってガーゼ交換はイノチ。
風の音を拾わないためや、衛生管理のためという理由により
マイクの頭にガーゼをかぶせて輪ゴムで留め
てるてる坊主のようにするのが
ウグイスに古くから伝わる「ガーゼ信仰」である。
マイクの性能が進化した今は、昭和の忘れ物的行為に等しいが
車の振動で口紅が付くこともあるので、まんざら無駄な作業ではない。
これをナミ様は毎朝、粛々と行っておられるのだ。
さて、その夜。
ナミ様を迎えに来ていたママに話を聞くと
警察は来たものの、あまりにも軽い接触で
傷の確認ができなかったので事故扱いにならず
帰って行ったそうだ。
「相手の人は、私が笑いながら逃げたと言うけど
すれ違う時に会釈して通り過ぎただけなのよ。
横に乗っていたナミも、事故に気がつかなかったんだもの。
でも私が悪いと言うから、家に行って謝るつもり」
ママはこともなげに言った。
「当たった部分を塗装し直せと言ってるから
保険を使わずに直してもらおうと思って、見積もりを頼んだの」
「何てことを…」
私は必死で止めた。
「狭い道なんだから、どっちが悪いなんて簡単に言えないよ。
事故証明を取って、保険使わないとダメだよ。
あの親子、普通じゃないよ」
しかしママは平然と言う。
「大丈夫、大丈夫。
私は50を過ぎて免許を取ったから、事故には慣れてるの」
得意げに微笑むママ。
それから「あの時も…この時だって…」と、ママの長い武勇伝が始まる。
見ていた通行人が味方してくれた…私はこう啖呵をきってやった…
テーマこそ違えど「つまり世界は私の味方」状の物語が
できあがっているところは、うちの義母ヨシコと同じパターンだ。
こういうおばあちゃん、よくいる。
「保険もね、割引が無くなるから使わない方がいいって
下の娘が言うから」
ナミ様には独身で実家暮らしをしている
一つ違いの妹様がおられるのだ。
実家に生計を頼り、たまにウグイスをする長女のナミ様より
長年社会人を営んでいる妹様の方が
当然ながらママの信頼は厚い様子だった。
「ナミもね、こういう時だから穏便にすませた方がいいと言うし」
「こういう時だからこそ、きちんとしなきゃ」
「でも娘達がそう言うから。
渡る世間に鬼は無しって言うじゃない」
「今どきは、鬼の方が多いんだよ」
「大丈夫、心配してくれてありがとう」
バカ娘どもめ…私はいまいましかったが
母親と娘の結束は、周囲が思う以上に強くて深い。
ナミ様のおうちは父親を数年前に亡くした女所帯なので
母娘の絆は一層強度を増している。
何日か前に初めて会った私の言うことなんか、聞きやしないのだった。
翌朝…つまり選挙戦5日目。
相手の家に行ったのか、ママとナミ様にたずねると
昨日は相手の都合が悪かったので、今夜行くと言う。
「母親は看護師をしているそうだから
夜勤でもあったんじゃないかしら」
「今からでも遅くない、保険使ってプロに任せた方がいいよ」
「でもナミが保険は絶対ダメと言うから…」
私はナミ様にたずねた。
「あんた、マジか?」
「私は…」
ナミ様は口ごもった。
「保険を使うには…事故証明がいるでしょう…
警察へ行かないといけないでしょう…」
つまり先日の暴漢事件で年齢詐称が発覚したため
恥ずかしくて警察に行けないとおっしゃるのであった。
「刑事課と交通課は別の人よ。
嫌だったらママだけ行けばいいじゃん」
「でも…同乗者だし、母を一人で行かせるのもかわいそうだし…」
私はこの時点で説得をやめた。
世間知らずの娘の誤った判断に従い
喜んで地獄に落ちる母親は、うちにも一人いるじゃないか…
母娘で「人が悪い、人が悪い」と憎んでいれば時は経ち
やがて新しい問題が起きたら、前のことは忘れるのだ…
私はそれを目の前で30年以上も見てきたじゃないか…
そう自分に言い聞かせた。
ナミ様母娘が本当に地獄に落ちたのは、その夜であった。