「もしもし…」
知らない番号の知らない男から電話がかかって来た…
と言っても、夫にとってそんなことは日常茶飯事。
彼の携帯番号は名刺やホームページで公開しているので
仕事に関する問い合わせや現場の業者からの連絡など
夫が受ける電話の何割かは知らない人からだ。
しかしこの電話、内容のほうは一風変わっていた。
男は自分の名前と勤務先を名乗った後
「知り合いの女性を運転手で雇ってくれませんか」
そう言ったからだ。
「運転手は間に合ってます」
夫が答えると、男はなおも言った。
「女性でも、経験は長いんですが」
「ダンプの空きが無いから、募集はしてないんですよ」
「面接だけでもしてもらえませんかね?」
「人を入れる予定が無いのに面接はできんでしょう。
そもそも、うちへ来たい人とは誰のことですか?」
男はそう言われて口ごもる。
「それは今、ちょっと…
面接してもらえたら、本人を行かせますから…」
真面目に対応する価値無しと判断した夫は、冷たく言った。
「わけのわからん人とは、会われんわ」
男は沈黙し、電話は切られた。
男の言った勤務先は夫の親友、田辺君の勤務先でもあった。
また、その勤務先はヒロミが以前、働いていた所でもある。
こういうのは、偶然と言わない。
大型ダンプを使う会社は、数が多くないからだ。
この近辺に住むダンプ乗りにとっての転職とは
数ヶ所の仕事先を順番に巡ることなので、勤務先の符合は当たり前である。
電話の後、夫がさっそく田辺君に確認すると、彼はすぐに答えた。
「うちでダンプに乗ってる50過ぎのオッサンだよ。
無職と再就職を繰り返して腐ったクチ。
松木のオッサンと同じだから、相手にしない方がいいよ。
今はダンプ乗りの女と付き合ってるらしいから
言ってるのは自分の女のことじゃないの?」
知らない男からの電話は、その後も続いた。
ただし、かけてくる相手はそれぞれ別人。
「知り合いの女性運転手を入れて欲しい」
話す内容はほぼ同じだ。
そして、その女性の素性は言わない。
ぞんざいな話し方から、夫はどれも同じようなレベルの運転手仲間だと感じた。
この手の電話は6月29日から30日にかけて、合計5回あった。
「ええ加減にせぇ!
人に電話さして自分は隠れとるモンを、ハイハイ言うて入れたらバカじゃわ!」
夫もしまいには嫌気がさして、きついことを言っていた。
この人、基本は無口だが、腹を立てると結構言いなさるんじゃ。
話題の女性が誰であるか、我々は最初から確信している。
ムッちゃんだ。
ヒロミに夫の携帯番号を聞いたものの、自分では言いにくいので
せっせと知り合いに電話をかけさせているのである。
後で次男が言うには、電話のあった29日と30日の両日
ヒロミは珍しくムッちゃんのことを口にしなかったそうだ。
この作戦に賭けていたからだと思われる。
我々は、彼らを心から憐れんだ。
あんな電話で就職できると、マジで思っているのか。
どいつもこいつも、悲しくなるほど愚かではないか。
このような人たちがいるから、ダンプ乗りの地位は向上しないのだ。
とはいえ、女だと告げれば採用の可能性が出ると踏んだ
彼らの心境はわからないでもない。
夫の女好きは有名だ。
人類の大好きなシモの噂で、周囲を賑わせていた過去は消えない。
だから彼らは夫に電話をした時、ムッちゃんの情報を隠しながらも
女性の運転手ということだけは、はっきりと伝えた。
ハーレムを作ると豪語していた藤村の例もあることだし
女と聞いた夫が、会ってみたいと思えばしめたもの。
あるとすればの話だが、ムッちゃんの魅力で夫を魅了し、めでたく入社の予定。
その過程が、最初に電話をかけてきたカレシとの媚薬になるであろうことはさておき
古い話になるが、夫にはヤクザの情婦だった未亡人に魅了され、会社に入れた前例がある。
この業界、愛人を会社に入れるのはよくあることなので、さほどの驚きは無いが
界隈のダンプ乗りにとって衝撃的だったのは、乗せるダンプの空きが無いにもかかわらず
その未亡人を運転手として入社させたことだった。
ダンプ乗りの就職は、まず空いたダンプありき。
空きダンプが無いのに運転手を入れたとなると
今勤めている社員の誰かを辞めさせる心づもりがあると公言したも同じだ。
能天気な夫は深い考えもなく、ただ愛人の希望に従ったまでだが
社員の方は確実にそうとらえる。
与えられたダンプに強い思い入れを持って働く運転手の思考回路は、そうなのだ。
愛人を働かせたければ、とりあえず社員に影響の少ない仕事をさせて様子を見る…
それは愛人を会社に入れる際の、最低限の掟。
恋に狂って女の言いなりとなった夫は、結果的にこの掟を破った。
そのために社員を不安と絶望に陥れた事実は、当然知れ渡る。
運転手が無線でしゃべるからだ。
それは30年近く経った今でも語り継がれている。
ムッちゃん御一行が、この過去を把握しているかどうかは不明だが
少なくとも女好き、女の言いなりという夫の悪癖を知っているからこそ
計画された作戦なのは間違いない。
アレらが軽い頭で考えそうなことだが、本社と合併した現在
会社は夫の思い通りにならないため、時代的に古過ぎる。
また、ムッちゃんが勇気を出して夫の所へ行き、就職を頼んでみたところで
50もつれの元ヤンに夫がよろめくかどうか。
こっちは視覚的に古過ぎる。
いずれにしても残念な作戦だった。
《続く》
知らない番号の知らない男から電話がかかって来た…
と言っても、夫にとってそんなことは日常茶飯事。
彼の携帯番号は名刺やホームページで公開しているので
仕事に関する問い合わせや現場の業者からの連絡など
夫が受ける電話の何割かは知らない人からだ。
しかしこの電話、内容のほうは一風変わっていた。
男は自分の名前と勤務先を名乗った後
「知り合いの女性を運転手で雇ってくれませんか」
そう言ったからだ。
「運転手は間に合ってます」
夫が答えると、男はなおも言った。
「女性でも、経験は長いんですが」
「ダンプの空きが無いから、募集はしてないんですよ」
「面接だけでもしてもらえませんかね?」
「人を入れる予定が無いのに面接はできんでしょう。
そもそも、うちへ来たい人とは誰のことですか?」
男はそう言われて口ごもる。
「それは今、ちょっと…
面接してもらえたら、本人を行かせますから…」
真面目に対応する価値無しと判断した夫は、冷たく言った。
「わけのわからん人とは、会われんわ」
男は沈黙し、電話は切られた。
男の言った勤務先は夫の親友、田辺君の勤務先でもあった。
また、その勤務先はヒロミが以前、働いていた所でもある。
こういうのは、偶然と言わない。
大型ダンプを使う会社は、数が多くないからだ。
この近辺に住むダンプ乗りにとっての転職とは
数ヶ所の仕事先を順番に巡ることなので、勤務先の符合は当たり前である。
電話の後、夫がさっそく田辺君に確認すると、彼はすぐに答えた。
「うちでダンプに乗ってる50過ぎのオッサンだよ。
無職と再就職を繰り返して腐ったクチ。
松木のオッサンと同じだから、相手にしない方がいいよ。
今はダンプ乗りの女と付き合ってるらしいから
言ってるのは自分の女のことじゃないの?」
知らない男からの電話は、その後も続いた。
ただし、かけてくる相手はそれぞれ別人。
「知り合いの女性運転手を入れて欲しい」
話す内容はほぼ同じだ。
そして、その女性の素性は言わない。
ぞんざいな話し方から、夫はどれも同じようなレベルの運転手仲間だと感じた。
この手の電話は6月29日から30日にかけて、合計5回あった。
「ええ加減にせぇ!
人に電話さして自分は隠れとるモンを、ハイハイ言うて入れたらバカじゃわ!」
夫もしまいには嫌気がさして、きついことを言っていた。
この人、基本は無口だが、腹を立てると結構言いなさるんじゃ。
話題の女性が誰であるか、我々は最初から確信している。
ムッちゃんだ。
ヒロミに夫の携帯番号を聞いたものの、自分では言いにくいので
せっせと知り合いに電話をかけさせているのである。
後で次男が言うには、電話のあった29日と30日の両日
ヒロミは珍しくムッちゃんのことを口にしなかったそうだ。
この作戦に賭けていたからだと思われる。
我々は、彼らを心から憐れんだ。
あんな電話で就職できると、マジで思っているのか。
どいつもこいつも、悲しくなるほど愚かではないか。
このような人たちがいるから、ダンプ乗りの地位は向上しないのだ。
とはいえ、女だと告げれば採用の可能性が出ると踏んだ
彼らの心境はわからないでもない。
夫の女好きは有名だ。
人類の大好きなシモの噂で、周囲を賑わせていた過去は消えない。
だから彼らは夫に電話をした時、ムッちゃんの情報を隠しながらも
女性の運転手ということだけは、はっきりと伝えた。
ハーレムを作ると豪語していた藤村の例もあることだし
女と聞いた夫が、会ってみたいと思えばしめたもの。
あるとすればの話だが、ムッちゃんの魅力で夫を魅了し、めでたく入社の予定。
その過程が、最初に電話をかけてきたカレシとの媚薬になるであろうことはさておき
古い話になるが、夫にはヤクザの情婦だった未亡人に魅了され、会社に入れた前例がある。
この業界、愛人を会社に入れるのはよくあることなので、さほどの驚きは無いが
界隈のダンプ乗りにとって衝撃的だったのは、乗せるダンプの空きが無いにもかかわらず
その未亡人を運転手として入社させたことだった。
ダンプ乗りの就職は、まず空いたダンプありき。
空きダンプが無いのに運転手を入れたとなると
今勤めている社員の誰かを辞めさせる心づもりがあると公言したも同じだ。
能天気な夫は深い考えもなく、ただ愛人の希望に従ったまでだが
社員の方は確実にそうとらえる。
与えられたダンプに強い思い入れを持って働く運転手の思考回路は、そうなのだ。
愛人を働かせたければ、とりあえず社員に影響の少ない仕事をさせて様子を見る…
それは愛人を会社に入れる際の、最低限の掟。
恋に狂って女の言いなりとなった夫は、結果的にこの掟を破った。
そのために社員を不安と絶望に陥れた事実は、当然知れ渡る。
運転手が無線でしゃべるからだ。
それは30年近く経った今でも語り継がれている。
ムッちゃん御一行が、この過去を把握しているかどうかは不明だが
少なくとも女好き、女の言いなりという夫の悪癖を知っているからこそ
計画された作戦なのは間違いない。
アレらが軽い頭で考えそうなことだが、本社と合併した現在
会社は夫の思い通りにならないため、時代的に古過ぎる。
また、ムッちゃんが勇気を出して夫の所へ行き、就職を頼んでみたところで
50もつれの元ヤンに夫がよろめくかどうか。
こっちは視覚的に古過ぎる。
いずれにしても残念な作戦だった。
《続く》