知床の遊覧船事故、いたましくてならないわ。
26人と船が行方不明ということだったので、最初は拉致かと思ったの。
ほら、今は何かと物騒でしょ。
そしたら事故だったのね。
拉致なら生存の可能性があるけど、事故だと知ってショックだったわ。
この季節に知床くんだりに出かけて船遊びをするって
そもそも恵まれた人たちなんだと思う。
それが一瞬でかき消されてしまうなんて、あまりにも残酷よ。
幸せな人はずっと幸せに、経済効果に貢献しながら長生きしてほしい。
船上プロポーズの予定だったカップルも、いらっしゃったんですってね。
私、そういうのにはあんまり感情が動かないのよ。
犠牲になった皆さんにはそれぞれ、特筆すべき濃い人生があると思ってるから。
それにしても船会社。
コロナで売り上げが落ちて経営難の中
人数がまとまったから出船したいという願望はわからないでもないけど
事故を起こしちゃ、元も子もないじゃないの。
あんまりだわよ。
うちの稼業は船に関わりのある職種だし
次男はもう手放したけど長男は自分の釣り船を持ってるから
天候や風速、波の高さについての会話はけっこう耳にする機会があるんだけど
皆、神経質なぐらい注意してるわ。
人を乗せる観光客船なら、なおさらよ。
だけど、観光客船ならではの難しいところもあると思う。
積荷が人でなく物だったり、漁船、あるいは個人の船であれば船長の権限は最強。
船長が判断して船を出さないと決めたら、会社や人が出せと言っても絶対に出さないけど
お客一人あたまナンボの利益で運営する観光業は、ちょっと違うかも。
観光バスの事故でも感じたけど、会社の方が強くて
船長が、船長という名の運転手に過ぎない場合も多い。
こう言っちゃ申し訳ないのは重々承知だけど、亡くなった船長さん。
転職を繰り返してきたお顔をしてらしたわ。
転職がいけないわけじゃないの。
土地の生まれでない…つまり北の海の怖さを身にしみて知らないってことが困るのよ。
この事故は、経営者と船長による人災だと思う。
恨まれても罵倒されても、利益を逃しても中止する、この勇気は大事。
今どきは、安く雇えるなら誰だっていいというスタンスで
人を雇う会社が増えてるじゃん。
その「誰だっていい」に肩書きを与えて、ハクをつける会社も増えてるわけよ。
肩書きがそのまま、経験を積んでるとか信用できるわけじゃない。
そういう時代になっちゃったのね。
うちらの会社でよ〜くわかったんだけどさ。
だからお客さんの方も、警戒心を持って臨む時代になってると思う。
観光客船はフェリーと違って、軽くて小さい。
沈没を始めたら早いので、救助が間に合わないことがある。
風があったり、近くで白波が立っていたら
沖は何倍もすごい有様だと想像することも必要だし
乗らない選択も大いに有りだと思う。
というのも私、幼児の頃、連絡船でスリルを味わったことがあるのよ。
3才の時、瀬戸内海のとある島へ、“虫切り”に行ったの。
昔はよく泣くうるさい子供、寝つきの悪い子供、落ち着きの無い子供…
つまり親にとって厄介な子供は、体内に悪い虫がいるとされていたのよ。
その悪い虫を追い出すのが、虫切りと呼ばれる気休めの儀式。
そうなの、私は厄介な子供ということになってた。
厄介も何も、年子を生んでおいて上の子に手がかかるからって
虫がいるだのと疑うのは失礼ってもんよ。
一人っ子の母も、一人っ子しか育てたことの無い祖父母も
年子の養育が大変だとは知らなかったのね。
なにげに腹立つわ。
で、厄介な子供である私は、虫切りを執行されることになった。
当時、そのような困った子供にはモグサと線香でお灸をすえるのが一般的だったけど
うちは子供に傷をつけない主義だったので、無傷で済む虫切りと決まったわけ。
虫切りなんて時代錯誤をやってる人は、60年近く前でもすでに少なかったから
母はあちこちの人に聞いて、とある小さな島に虫切り屋があると知ったわ。
初冬のある晴れた日、私たち母子3人は汽車に乗って虫切り屋の島へ渡る港に向かったの。
妹はおとなしいおりこうさんで通ってたから、虫切りの必要性は無かったけど
家に置いておけないから一緒に連れて行った。
小さな連絡船で島へ渡り、あぜ道をてくてく歩いて古い民家に到着。
中年のおばさんが出てきて、ほの暗い部屋に案内されると
そこにはヨボヨボのお婆さんが座ってたわ。
不気味だったけど、怖いとは思わなかった。
母は部屋の入り口で待つように言われ、私と妹はお婆さんの前に並んで座ったわ。
「目をつむって」
お婆さんが言ったわ。
素直で可愛い私は、言われるままに目を閉じたわよ。
「目を開けたらだめよ」
お婆さんは優しい声で、さらに言ったわ。
開けたらだめと言われたら、開けるじゃんか。
それが私よ。
薄目を開けて一部始終を見てた。
お婆さんは私の手を取ると、私の服の袖をまくったわ。
そしてごく小さなホウキみたいな物で、ヒジから指先までをサッと撫でた。
両手をやって、終わり。
この作業を妹にもやった。
「終わりました」
お婆さんは母に声をかけて、部屋に入ってきた母はお金を払っていたわ。
それからお婆さんは、どこに隠していたんだか
小さな虫かごをチラッと私たちに見せた。
当時の子供が虫捕りで使う、どこにでも売ってる普通の虫かごよ。
中には、何か黒い小さな虫がウジャウジャとうごめいていて
私はもっとちゃんと見たかったけど、じっくり見せてはくれなかった。
あれが私たちの体内で悪さをしていた虫…ということらしいわ。
その帰りのことよ。
来た時と同じように連絡船に乗ったんだけど、帰りは中の客席が満員で入れなかった。
だから私ら母子は、外のデッキに立っていたの。
すると、それまで晴れていた空が急に暗くなって
強い風が吹き、横なぐりの雨が降り出したわ。
船は大きく揺れ始め、デッキには海水が流れ込んで
私ら母子の足は浸水してたわよ。
波は容赦なく襲いかかるし、船内へ移動しようにも
動いたら海へ投げ出されるから動けない。
母は妹を抱いてるから、私は手すりにつかまってるしか無かったわ。
船員のおじさんが、「大丈夫だからね」って努めて明るく声をかけてくれたけど
ちっとも大丈夫じゃないってば。
めっさ怖かったわよ。
でさ、ようよう港に着いたらカラッと晴れてやんの。
あれは何だったのかしらん。
帰宅しても、母はこのことについて一切触れなかったわ。
危ない目に遭ったことを話すと、祖父に大目玉を食らうからだと思う。
あの爺さん、戦争中は船乗りだったからさ。
うるさいのよ、こういうことにはさ。
私も言っちゃいけないような気がして、黙ってた。
というより、このうるさいおしゃべり幼児が話したくもなかったのよ。
それほど怖かったのよ。
効き目があったとすれば、虫切りよりこっちだわよ。
とまあ、そんな軽い体験でも怖かったんだから
船が沈んで海に投げ出される恐怖は、筆舌に尽くしがたいはずよ。
犠牲になられた方々はどんなに冷たく、どんなに怖かったでしょう。
せめてご遺体が早く見つかりますように。
心からご冥福をお祈りいたします。
26人と船が行方不明ということだったので、最初は拉致かと思ったの。
ほら、今は何かと物騒でしょ。
そしたら事故だったのね。
拉致なら生存の可能性があるけど、事故だと知ってショックだったわ。
この季節に知床くんだりに出かけて船遊びをするって
そもそも恵まれた人たちなんだと思う。
それが一瞬でかき消されてしまうなんて、あまりにも残酷よ。
幸せな人はずっと幸せに、経済効果に貢献しながら長生きしてほしい。
船上プロポーズの予定だったカップルも、いらっしゃったんですってね。
私、そういうのにはあんまり感情が動かないのよ。
犠牲になった皆さんにはそれぞれ、特筆すべき濃い人生があると思ってるから。
それにしても船会社。
コロナで売り上げが落ちて経営難の中
人数がまとまったから出船したいという願望はわからないでもないけど
事故を起こしちゃ、元も子もないじゃないの。
あんまりだわよ。
うちの稼業は船に関わりのある職種だし
次男はもう手放したけど長男は自分の釣り船を持ってるから
天候や風速、波の高さについての会話はけっこう耳にする機会があるんだけど
皆、神経質なぐらい注意してるわ。
人を乗せる観光客船なら、なおさらよ。
だけど、観光客船ならではの難しいところもあると思う。
積荷が人でなく物だったり、漁船、あるいは個人の船であれば船長の権限は最強。
船長が判断して船を出さないと決めたら、会社や人が出せと言っても絶対に出さないけど
お客一人あたまナンボの利益で運営する観光業は、ちょっと違うかも。
観光バスの事故でも感じたけど、会社の方が強くて
船長が、船長という名の運転手に過ぎない場合も多い。
こう言っちゃ申し訳ないのは重々承知だけど、亡くなった船長さん。
転職を繰り返してきたお顔をしてらしたわ。
転職がいけないわけじゃないの。
土地の生まれでない…つまり北の海の怖さを身にしみて知らないってことが困るのよ。
この事故は、経営者と船長による人災だと思う。
恨まれても罵倒されても、利益を逃しても中止する、この勇気は大事。
今どきは、安く雇えるなら誰だっていいというスタンスで
人を雇う会社が増えてるじゃん。
その「誰だっていい」に肩書きを与えて、ハクをつける会社も増えてるわけよ。
肩書きがそのまま、経験を積んでるとか信用できるわけじゃない。
そういう時代になっちゃったのね。
うちらの会社でよ〜くわかったんだけどさ。
だからお客さんの方も、警戒心を持って臨む時代になってると思う。
観光客船はフェリーと違って、軽くて小さい。
沈没を始めたら早いので、救助が間に合わないことがある。
風があったり、近くで白波が立っていたら
沖は何倍もすごい有様だと想像することも必要だし
乗らない選択も大いに有りだと思う。
というのも私、幼児の頃、連絡船でスリルを味わったことがあるのよ。
3才の時、瀬戸内海のとある島へ、“虫切り”に行ったの。
昔はよく泣くうるさい子供、寝つきの悪い子供、落ち着きの無い子供…
つまり親にとって厄介な子供は、体内に悪い虫がいるとされていたのよ。
その悪い虫を追い出すのが、虫切りと呼ばれる気休めの儀式。
そうなの、私は厄介な子供ということになってた。
厄介も何も、年子を生んでおいて上の子に手がかかるからって
虫がいるだのと疑うのは失礼ってもんよ。
一人っ子の母も、一人っ子しか育てたことの無い祖父母も
年子の養育が大変だとは知らなかったのね。
なにげに腹立つわ。
で、厄介な子供である私は、虫切りを執行されることになった。
当時、そのような困った子供にはモグサと線香でお灸をすえるのが一般的だったけど
うちは子供に傷をつけない主義だったので、無傷で済む虫切りと決まったわけ。
虫切りなんて時代錯誤をやってる人は、60年近く前でもすでに少なかったから
母はあちこちの人に聞いて、とある小さな島に虫切り屋があると知ったわ。
初冬のある晴れた日、私たち母子3人は汽車に乗って虫切り屋の島へ渡る港に向かったの。
妹はおとなしいおりこうさんで通ってたから、虫切りの必要性は無かったけど
家に置いておけないから一緒に連れて行った。
小さな連絡船で島へ渡り、あぜ道をてくてく歩いて古い民家に到着。
中年のおばさんが出てきて、ほの暗い部屋に案内されると
そこにはヨボヨボのお婆さんが座ってたわ。
不気味だったけど、怖いとは思わなかった。
母は部屋の入り口で待つように言われ、私と妹はお婆さんの前に並んで座ったわ。
「目をつむって」
お婆さんが言ったわ。
素直で可愛い私は、言われるままに目を閉じたわよ。
「目を開けたらだめよ」
お婆さんは優しい声で、さらに言ったわ。
開けたらだめと言われたら、開けるじゃんか。
それが私よ。
薄目を開けて一部始終を見てた。
お婆さんは私の手を取ると、私の服の袖をまくったわ。
そしてごく小さなホウキみたいな物で、ヒジから指先までをサッと撫でた。
両手をやって、終わり。
この作業を妹にもやった。
「終わりました」
お婆さんは母に声をかけて、部屋に入ってきた母はお金を払っていたわ。
それからお婆さんは、どこに隠していたんだか
小さな虫かごをチラッと私たちに見せた。
当時の子供が虫捕りで使う、どこにでも売ってる普通の虫かごよ。
中には、何か黒い小さな虫がウジャウジャとうごめいていて
私はもっとちゃんと見たかったけど、じっくり見せてはくれなかった。
あれが私たちの体内で悪さをしていた虫…ということらしいわ。
その帰りのことよ。
来た時と同じように連絡船に乗ったんだけど、帰りは中の客席が満員で入れなかった。
だから私ら母子は、外のデッキに立っていたの。
すると、それまで晴れていた空が急に暗くなって
強い風が吹き、横なぐりの雨が降り出したわ。
船は大きく揺れ始め、デッキには海水が流れ込んで
私ら母子の足は浸水してたわよ。
波は容赦なく襲いかかるし、船内へ移動しようにも
動いたら海へ投げ出されるから動けない。
母は妹を抱いてるから、私は手すりにつかまってるしか無かったわ。
船員のおじさんが、「大丈夫だからね」って努めて明るく声をかけてくれたけど
ちっとも大丈夫じゃないってば。
めっさ怖かったわよ。
でさ、ようよう港に着いたらカラッと晴れてやんの。
あれは何だったのかしらん。
帰宅しても、母はこのことについて一切触れなかったわ。
危ない目に遭ったことを話すと、祖父に大目玉を食らうからだと思う。
あの爺さん、戦争中は船乗りだったからさ。
うるさいのよ、こういうことにはさ。
私も言っちゃいけないような気がして、黙ってた。
というより、このうるさいおしゃべり幼児が話したくもなかったのよ。
それほど怖かったのよ。
効き目があったとすれば、虫切りよりこっちだわよ。
とまあ、そんな軽い体験でも怖かったんだから
船が沈んで海に投げ出される恐怖は、筆舌に尽くしがたいはずよ。
犠牲になられた方々はどんなに冷たく、どんなに怖かったでしょう。
せめてご遺体が早く見つかりますように。
心からご冥福をお祈りいたします。