「からだとの対話」、今回もMacのKeynote(Windowsでいうところのパワーポイント)を用意している。
「写真が多い方がいい」
という前回のご意見に従って、言葉よりも写真を増やした。
とりわけ鉱物の蛍光現象は、実際に見ていただく前に、まず写真で紹介することになりそうだ。
美しさもさることながら、この蛍光現象を起こす”電磁波”全体は、現代社会、現代文明の基礎となる“情報”と“エネルギー”に関わってくることなので、取り上げたかった。
Keynoteをつくりながら、写真の途中に電磁波の説明を入れてみた。が、しっくりこない。せっかくの佐治さんの写真が、そこはかとなく醸し出す雰囲気を壊してしまうので、あえて入れることをやめた。
考えてみれば野口先生は、知的な理解を最初に持つことよりも、実際に「あなたの目で見て欲しい!」。そこで何を感じることができるのか、「実感」を大切にされていた。
「私は、はっきり見た!」
と思った感覚を問い直すことでもあった。
「本当に、見る!」
それは一体何を基準に見ているのか、という問いかけだった。
電磁波についてここに書き取っておきたい。
電波 …… mm ミリメートルの世界
赤外線 … 1μm マイクロ波の世界
可視光線… 0.7μm~0.3μm
紫外線 …… 数nm(UV 紫のそとへ)可視光線(紫の端)に重複 ナノメートルの世界が中心
X線 …… 10nm~1pm 一部が紫外線に重複しているがピコメートルの世界。
ガンマ線 …10pmより短い
野口先生が「鉱物の蛍光現象」にいたく興味を持たれて、執着されたのには、大きく二つの理由が挙げられることに気づいた。
一つ目は、鉱物が紫外線のエネルギーを吸収して励起状態から基底状態に戻ろうとするとき発光現象が見られる。それには不純物がなければならない、ということ。
非常に僅かな不純物が存在することの意味に注目した。
二つ目は、可視光線の紫の端に紫外線が重複することで、私たちの目は「蛍光現象」を見ることができる。つまり現象の重なり領域への興味だ。このことは紫外線からX線の場合にも似たような重複が見られる。
興味の中心は、なんといっても「ひとつながりの自然」の有り様だ。
からだはもちろんのこと、自然現象は明確に区切られたものではなく、一続きのなかで現象が移っていく。ある閾値を超えるとその特徴が明確になるが、その境界領域こそが「ムーブメント」に違いない。認識の助けという意味で「鉱物の蛍光現象」への興味もあった。いや、まずは美しい!という感性の覚醒が大事だった。
顕在化し、明確化し、鮮鋭化することの前に、移りゆく「曖昧領域」「現象の重なり領域」を疎かにしないでありたい、と言いたかったに違いない。
「からだから切り離された腕は、所有権はあるだろうけれど、もうその腕は腕ではない」
この例をよく話されていた。
繋がり、伝わり、関係のなかで、まるごとの存在としてある、その事実を忘れないこと。
部分を繋いでも全体にはならない。
不純物であったり、境界領域であったり、曖昧領域であったり、そこに動きの本質を見ていた。
つまり、丁寧にその領域を探ることが、野口体操なのかもしれない。だから「ポーズ」という言葉はいっさい使わなかった。むしろ嫌っていたほどだ。顕在化する前の“もやもや感”、もやもやしていてもどこか鮮明である、というような矛盾を含む。何かがはっきりと立ち上る前の“揺らめき感”をいとおしく思う、というようような在り方。
上手く言えない。きっと、龍村監督の話を伺ううちに、もう少し言葉になってくれるような予感がしている。
「電磁波に貞く」とは、“現代文明のゆくへ”をさぐることだ、ということだけは自分の中ではっきりしている。
「写真が多い方がいい」
という前回のご意見に従って、言葉よりも写真を増やした。
とりわけ鉱物の蛍光現象は、実際に見ていただく前に、まず写真で紹介することになりそうだ。
美しさもさることながら、この蛍光現象を起こす”電磁波”全体は、現代社会、現代文明の基礎となる“情報”と“エネルギー”に関わってくることなので、取り上げたかった。
Keynoteをつくりながら、写真の途中に電磁波の説明を入れてみた。が、しっくりこない。せっかくの佐治さんの写真が、そこはかとなく醸し出す雰囲気を壊してしまうので、あえて入れることをやめた。
考えてみれば野口先生は、知的な理解を最初に持つことよりも、実際に「あなたの目で見て欲しい!」。そこで何を感じることができるのか、「実感」を大切にされていた。
「私は、はっきり見た!」
と思った感覚を問い直すことでもあった。
「本当に、見る!」
それは一体何を基準に見ているのか、という問いかけだった。
電磁波についてここに書き取っておきたい。
電波 …… mm ミリメートルの世界
赤外線 … 1μm マイクロ波の世界
可視光線… 0.7μm~0.3μm
紫外線 …… 数nm(UV 紫のそとへ)可視光線(紫の端)に重複 ナノメートルの世界が中心
X線 …… 10nm~1pm 一部が紫外線に重複しているがピコメートルの世界。
ガンマ線 …10pmより短い
野口先生が「鉱物の蛍光現象」にいたく興味を持たれて、執着されたのには、大きく二つの理由が挙げられることに気づいた。
一つ目は、鉱物が紫外線のエネルギーを吸収して励起状態から基底状態に戻ろうとするとき発光現象が見られる。それには不純物がなければならない、ということ。
非常に僅かな不純物が存在することの意味に注目した。
二つ目は、可視光線の紫の端に紫外線が重複することで、私たちの目は「蛍光現象」を見ることができる。つまり現象の重なり領域への興味だ。このことは紫外線からX線の場合にも似たような重複が見られる。
興味の中心は、なんといっても「ひとつながりの自然」の有り様だ。
からだはもちろんのこと、自然現象は明確に区切られたものではなく、一続きのなかで現象が移っていく。ある閾値を超えるとその特徴が明確になるが、その境界領域こそが「ムーブメント」に違いない。認識の助けという意味で「鉱物の蛍光現象」への興味もあった。いや、まずは美しい!という感性の覚醒が大事だった。
顕在化し、明確化し、鮮鋭化することの前に、移りゆく「曖昧領域」「現象の重なり領域」を疎かにしないでありたい、と言いたかったに違いない。
「からだから切り離された腕は、所有権はあるだろうけれど、もうその腕は腕ではない」
この例をよく話されていた。
繋がり、伝わり、関係のなかで、まるごとの存在としてある、その事実を忘れないこと。
部分を繋いでも全体にはならない。
不純物であったり、境界領域であったり、曖昧領域であったり、そこに動きの本質を見ていた。
つまり、丁寧にその領域を探ることが、野口体操なのかもしれない。だから「ポーズ」という言葉はいっさい使わなかった。むしろ嫌っていたほどだ。顕在化する前の“もやもや感”、もやもやしていてもどこか鮮明である、というような矛盾を含む。何かがはっきりと立ち上る前の“揺らめき感”をいとおしく思う、というようような在り方。
上手く言えない。きっと、龍村監督の話を伺ううちに、もう少し言葉になってくれるような予感がしている。
「電磁波に貞く」とは、“現代文明のゆくへ”をさぐることだ、ということだけは自分の中ではっきりしている。