昨日、午後、有楽町・よみうりホールの一階席・後ろ中央に着席した。
その時、1ベルが鳴った。
ぐるりと見渡すと、女子高校生からご高齢の方まで、幅広い年代の方々で満席状態だった。
女性の方が多いだろうか。
それでも若者からお年寄りまで、男性の姿もあちこちに見受けられる。
座席から舞台へと視線を向ける。
背景には濃紺の幕が引かれて、その前に演題がおかれているだけである。
今時のパワポのためのスクリーンもなければ、黒板あるいはホワイトボードもない。
いたって殺風景である。
この講演会は、日本近代文学館主催である。
毎年「夏の文学教室」と称して、今年で56回目を迎えた。
テーマは、『文学の現在ー越境・往還する言葉』である。
登壇者は、赤坂真理、鹿島茂、京極夏彦の三氏で、持ち時間は各1時間である。
実は、この殺風景な舞台上で、豊穣な言葉の世界が繰り広げられるのである。
役者は一人で、他には大道具も小道具も照明も効果音も音楽もなく、ただ言葉だけで、ただ音声言語だけで、三人三様の文学世界に浸ることができるのだ。
こんな贅沢が他にあるだろうか、って今年も思った。
少しだけ演目と話の内容に触れておきたい。
赤坂真理さん。「トランス天皇論」。歴史的な天皇像と明治期から昭和20年の敗戦までの天皇について話された。「象徴」とは何かを語る彼女は巫女さんのようであった。文学を創作するということは、何者かがのり移る憑依現象がおこらなければ成り立たないのではあるまいか、と思わせる風情だった。それもたった一人ではなく、様々な人間や神や悪魔や祖霊がのり移るのだから、本人は辛かろう。でもそれが作家としての醍醐味に違いない、と思わせる。
鹿島茂さん。「三島由紀夫とフランス文学」。慈悲の聖母マリア信仰と十字架上の殉教イエスの信仰を中心に、カトリック三島論。他のフランス文学からもらった方法論も交えて、深く納得。刮目!であった。三島の全体像が一旦は瓦解したかのように見えて、実は復活を遂げるのだ。その上、十字架から降ろされた傷だらけのキリストを抱くマリアを描いたピエタ像を見せてもらったような昇華の境地まで導かれた。お見事。
京極夏彦さん。「物語の在り処〜遠野物語を巡って」。スリル感に満ちた柳田國男を通して、京極流 “物語の本質” を見せてもらった。「それからどうなるの!」「えー、それからどうなるの!」先へ先へと耳が求める。「ちょっと待って!」と、焦らすんだから憎い。声なき声を拾って聴くものの心を操つる快楽に浸っているに違いない。こちらとしては、操られる、それが楽しい。最後に“物語とは”に帰結して、「どこへ行くの」と、ハラハラさせた話はちゃんと腑に落としてもらえた。実に、質の高い推理映画であった。
夏の文学教室、二日目の授業は、京極さんの話で頂点に達した。
三時間の話を聞き終わって三人三様の面白さは、野口三千三のこの言葉にあると思った。
感覚とは錯覚のことである。錯覚以外の感覚は事実としては存在しない。
理解とは誤解のことである。誤解以外の理解は事実としては存在しない。
判断とは独断のことである。独断以外の判断は事実としては存在しない。
意見とは偏見のことである。偏見以外の意見は事実としては存在しない。
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日本近代文学館主催 夏の文学教室『文学の現在ー越境・往還する言葉』
本日を入れて8月3日まで、有楽町 よみうりホール 13時より、あと4回開催されます。