羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

仏壇に手を合わせる

2017年08月26日 07時12分46秒 | Weblog
 8月ものこり一週間となった。
 今年もまた、明治大学シェイクスピアプロジェクトのワークショップがはじまっている。
 助手にピーターが来てくれて、初回からテンション上がりっぱなしである。
 9月二週目まで、充実した時間を若ものと過ごすことができそうだ。

 さて、母が入所してほぼ三ヶ月が過ぎようとしている。
 以前の騒ぎはいったい何だったのか、と不思議になるくらいおちついてくれた。
「施設はじまって以来です」
 脱ぎっぷりのよさでは右に出るものはいないそうだ。
 お蔭ですっかり有名人となった。
 介護職の方々ばかりでなく、事務の方々にも「よかったですね」と話しかけられる。

 皆さんに相当なご心配をかけたようだった。
 とらなかった食事も、今では、ユニットのどの入所者さんよりしっかり食べるそうだ。
 さすがにプロの方々のお力はすごい、と感服している。

 ただ、困ることは、私が引き上げようとすると
「これで帰りましょう」
 家に帰る気持ちになってしまうことだ。
 もしかすると、ここで元気になって家に帰る、となんとなく思いはじめているのだろうか。
 だからといって騒ぐでもなし、駄々をこねるでもない。
 おとなしいのである。
 それがまたなんとも不憫に思われる。

 母は一日のリズムが定まったようだ。
 ところが私ときたら、どことなくまだ落ち着かない。
 料理をつくるとつくり過ぎ。
 母にかかっていた時間が空いて、本を読み始めるとやめられず。
 40年ぶりに得られた自分の時間にいささか戸惑うことがある。

 いちばん困るのは、判断がふらつくことである。
 何か、やりはじめても、途中でやめたくなって、まとまりがつかない、という自覚がある。
 余生を安心して生きる準備をはじめながら、ある手続きを行うに当たって、決心がつかないのである。
 あれこれ考えると、面倒くさくなる。
 来し方を振り返って、どこで間違ったのか? などと、しなくてもよい後悔をしたり……。
 そんな時間があったら、一歩まえに踏み出せばよい、とわかっていてもなかなか踏み切れないまま時が過ぎていく。
 むしろ、この状態のなかで大切な決定をくだすのは、避けた方がよさそうな気がしている。

 もうしばらく自分を自分で見守っていたい。
 まわりの方々に迷惑をかけることもありや、なしや。
 取り返しのつかない大きな間違いだけは、起こさないように。
 今朝も仏壇に手を合わせた。
 こんな祈りをこめて合掌するようになったのは、母が施設に入所して以来のことだから、まだ三ヶ月しかたっていない。
 自分でも、こういった変化に、いささか驚いている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする