羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

意識をアナログに分け積み上げる稽古「野口流・ヨガ逆立ち+呼吸」

2017年07月08日 09時18分44秒 | Weblog
 1991年、『野口体操を解剖する』と題して、朝日カルチャーセンター特別公開講座「野口三千三+養老孟司」の対談のなかで養老先生はおっしゃる。
「現代人の多くは、意識でなんでも解決できると思いすぎている」

 作家・ジャーナリスト佐々木俊尚氏は、春秋社・月刊『春秋』2017・7月号「テクノロジーと死」で、つぎのように書いておられる。
『意識が自分にあることをわたしたちは自明として捉えているが、他者の意識をわたしは直接に認識はできない。中略 そもそも、意識やクオリアはそれほどまでにかけがいのないものなのだろうか?』

 野口三千三は運動という観点から次のことばを残している。
《筋肉の存在を忘れよ、そのとき筋肉は最高の働きをするであろう。
 意識の存在を忘れよ、そのとき意識は最高の働きをするであろう。》

 比較解剖学の観点から三木成夫は、こころと意識を次のように分けている。
『腸管にこころは宿り、意識は脳に宿る』

 三木の説によれば、植物・内臓系(一本の管・腸管)=「こころ」に対して、動物・体壁・運動系(筋肉・骨・神経.脳)=「感覚・意識」として捉えている。

 このことがストンと腑に落ちたのは、『人体 5億年の記憶 解剖学者・三木成夫の世界』布施英利著 2017年3月刊 を読んだことに依った。

 意識は邪魔だ、意識は憎むべきものだ的な感じを持ちすぎていたことに同時に気づいた。
 運動には感覚(クオリア)と意識は、切り離せないこことして徹底的に意識的な練習をしてみようか、とも思った。

 もしや、私のように運動が不得意で、運動音痴の私が、野口体操に出会ったことで曲がりなりにもからだの柔らかさを得られた過去を振り返ってみる。
 右も左もわからず、どの動きも梃子にも棒にも引っかからなかった体操を、自分ひとりで自宅学習をする際には、とことん意識を働かせていたと思う。
 その時の意識は、養老先生や佐々木さんや、野口がいう意識とは、レベルも質も違うのかもしれない。
 が、ある運動を身につけようとして、稽古したり・倣ったりする時には、意識は働くんじゃないか、と肯定的に捉えていたように思う。
 当初は、どれもこれも動きにはならなかった。
 野口体操教室では、ほとんど立ったまま、皆さんの動きをひたすら目で追って、野口の話をしっかりと耳の奥に定着させようとつとめていた。

 自宅練習では、ノートを手元において、気づくことを端からメモしていた。
 高尚なことば、哲学的なことば、含蓄のふかいことばなどは皆無で、とるにたらなようにないようなメモだったと、思う。

 さて、野口体操を始めて40年を過ぎ、今年6月下旬から、あたらしく野口流ヨガ逆立ちの稽古をはじめた。
 からだをほぐしながら、ほぐす合間に襖を背に、行っている。
 正確な日付は、6月26日である。
 最初の一週間は、まず、脳天に乗せる感覚を集中して探った。
 安定してのせられたときには、呼吸練習を加える。
 
 まず、息を吐き切る。最後の段階で腹筋をぎゅーっと締めるように肋骨も内側に寄せる。
 そこで「止息」。数秒間、息を吐くことも吸うこともしない。落ち着いたところで、息を吸う。
 下に位置する肋骨を外側にじわりじわりと膨らませる。次に、鳩尾から下腹部をふわーっと膨らませ、骨盤の中へと意識を落とし込む。最後の段階で恥骨を意識して、膣を締める感じで、ゆっくり息を吸い込む。
 
 つまり、意識を次々順々・三カ所に移行させながら行うのだが、その間つねに頭の中心に重さがのっていることだけは中心の意識に置いておくことは忘れないようにしている。

 ある意味で相当な集中をしている。
 逆立ち以外の意識はすてているのだから。
 しかし、逆立ちするからだの内側のありよう、呼吸のときのからだの使い方についてはこまかく意識しているわけだ。

「からだの重さを分けるように。細胞ひとつ一つに分け入るように」
 野口のことばである。

 この2週間で倣ったことは、意識の中身を細かく分けることだった。

 内臓に宿る心は捨てる。
 しかし、筋肉・骨・神経・脳=感覚(クオリア)・意識には、徹底的にこだわってみる「野口流逆立ち+呼吸」練習である。

 まだ、襖から離れることはこわい。
 そのうちに部屋の真ん中で、こうした稽古が出来る予感がしている。
 
 信じてみよう。
 負けて、参って、任せて、待ってみようと思う。

 佐々木俊尚さんのことば
『わたしたちは意識をかけがいのないものだと思っているが、一方で意識はつねに雑念に囚われる厄介な存在であり、わたしたちの生を苦しめる元凶でもある。中略 わたしたちの本質は、この厄介な意識という「雲」なのではなく、その向こう側にある「青空」ではないだろうか?』

 むむッ、「青空?」
 三島由紀夫は、ボデイビルで鍛えて得た強い筋肉が自信となって、自由が丘商店街で神輿を担ぐ。
 担いだその果てに、汗と疲労が齎してくれた無心が、彼の「青空」を見せてくれた。
 しかし、見上げた「青空」とその情景を、彼は言葉にすることはできない、と書いている。

 今、改めてはじめた「ヨガ逆立ち+呼吸」意識を分け・積み上げるアナログ稽古の果てに見えるものは、いったいどんな風景だろう。
 実に、実に、楽しみである。

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 因みに、月刊『春秋』巻頭エッセー「テクノロジーと死」佐々木俊尚氏 哲学的な深い内容です。
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