羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

……少なくとも半数の筋肉を完全に休ませて……

2013年08月26日 08時40分09秒 | Weblog
 1972年、三笠書房から出版された『原初生命体としうての人間』は、その後1996年に岩波書店「同時代ライブラリー」から出された。その後、同時代ライブラリーはなくなったが、幸いなことに「岩波現代文庫」版として読者の手に届けられる。
 
 今でこそこの本に書かれていることは、多くの読者にとって、理解され評価されるに違いない。しかし、1972年当時にあって、どれほどの理解と共感を得られたのかは大きな疑問である。
 にもかかわらずこの本を編集し出版しようと考え、実現した編集者がいたことは驚嘆に値する、と誰でもが思うことだろう。
 もし、という問いかけをしてみよう。
「40年以上前に、この本が日の目を見ていなければ、野口三千三の身体哲学は、永遠に知られることはなかった」
 とほぼ確信している。
 
 たとえば、朝日新聞出版のPR誌は『一冊の本』という名称である。この冊子名は、実に意味が深い。繰り返すが、“一冊の本”としてこの世に出る、という事実は、非常に意義深いことなのだと強調しておきたい。

 さて、本題に入っていきたい。
『原初生命体としての人間』第一章「体操による人間変革」は、もともと1967年『現代の眼』に、「体操による人間変革ー皮膚の内側での創造」という題で掲載された文章に依る。
 この一章に書かれている内容は、野口体操の「核」である。
 実は、先週のこと。これまで38年間、野口体操に関わってきて、はじめて『状態の「差異」を感覚する』という小見出しがついている19㌻~25㌻の内容について、「事実と実感と意識と表現の間にはズレがある」(野口)というそのズレを少しだけ縮めることができる方法に気づいた。
 気づいただけでなく、レッスンのなかでその方法を提示することができた。

《動きが成り立つための絶対必要条件はエネルギーの総量ではなく、同一の系の中において「差異」があること……》
 このフレーズに続いて、そのことを実感するために「腕立て伏臥の腕屈伸」を試して欲しい、と本には書かれている。
 野口存命中に、このテーマは何度なく繰り返して話を聞き、実践も体験してきた。
 具体的に書いておきたい。
 運動に関わる筋肉は、拮抗筋として動く。
 例としてとりあげられるのは、「肘関節」である。
 腕を曲げる時に働く筋肉は内側の筋肉で「屈筋」。
 腕を伸ばす時に働く筋肉は外側の筋肉で「伸筋」である。
 これは解剖学が教えることで間違ってはいない。しかし、実際に「腕立て伏臥の腕屈伸(腕立て伏せ)」をやってみると、腕を曲げる時に働く筋肉は、外側の伸筋である。
 つまりこの動きは曲げる時も伸ばす時も、両方とも外側の「伸筋」が働くのが事実である。

《生きている人間の動きは、まず地球に対しての諸関係によって決定される》
 自分では腕を曲げるために内側の屈筋を働かせているつもりでも、実際にからだの中で起こっている事実は、落下の速度を和らげるために、腕を伸ばす時に働く「伸筋」を収縮させてブレーキをかけている、ということになる。

 この場合、腕を曲げる時も伸ばす時も、内側の筋肉は完全に休んでいて、力が抜けていることが求められる。
 次のような言葉で表現されている。
《運動能力が高いということは、その動きに必要な状態の差異を、自分のからだの中に、自由に創り出すことができることである》

 このことを「腕立て伏臥の腕屈伸」を、行う人と拮抗筋に触って試人と、二人組みになって実験してみる。
 はじめて野口体操で体験する人は、このようなことを考えたこともなく、試してみるまでは「屈筋」「伸筋」という名称に惑わされているの実情だ。
 それでも感覚は、しっかりそのことを実感できる。実感できるが、言葉にする時には、ちょっと自信がない雰囲気でこたえる人が多い。それは解剖学の知識に惑わされるlからだ。
 感覚は知識を超えて、正確に捉えることができる。もしかするとこのようなことは他にもたくさんあるのではないか、というのが野口の問いかけの出発点である。

 次に、例として挙げるのは「懸垂」である。
 この運動は、「腕立て伏臥の腕屈伸(腕立て伏せ)」とは逆の働き方をする。
 内側の「屈筋」だけが使われる、つまり、腕を曲げる時は当然で、伸ばすときも内側の「屈筋」が働く。
 鉄棒があるわけではないので、実際にはそれぞれがイメージとしてつかむしかない。
 このことを理解する多くの女性たちにとっては、「多分そうだろうなぁ~」程度のことで話は終わってしまっていた。

 そのくらいの理解で、私自身も40年近くの歳月が流れてしまった。学生にも鸚鵡返しのようにして、同じ説明をしながらお茶を濁してきたのだった。
「それじゃいけない!」
 本当に思ったのが、恥ずかしながら先週のことだった。
 そこで思いついたのが「木刀ふり」である。
 かつて先生の西巣鴨のご自宅で、「真剣」をつかって剣の扱い方の基本を教えられことがる。その後、自分でも練習をするようにと、水道橋の剣道具店から「鍛錬用の木刀」を買って届けてくださった。
 30数年前のことである。
 その重い木刀を振るには、「真剣」で教えられたことを忠実に行わないと、力のない者には上手く振ることができない。
 相手に打ち込むための方法ではない。できるだけ余分な力を使わずに振る在り方の伝授だった。
 練習する時は、基本の「基」だけに集中する。すると「懸垂」のときとまったく同様というわけではないが、拮抗筋の使い方・有り様は、「懸垂」の時と同様であることに気づいた。
 つまり、外側の伸筋は休んでいる状態、“半分の筋肉は休んでいる”のである。 
 動いていく方向が地球に対して、どちら向きなのかによって、ブレーキ(制御)として働く筋肉は、単純に“屈げる伸ばす”ではない実感がつかめるのだった。
 素人は、力がないと思っている者は、重い木刀を振りかぶり、振りおろすには、満身に力を入れているような気になってしまう。それは事実として「違う」という感覚をつかむことは、本当は誰にでも出来るのだ、と気づかされた。
 もう一つ、足腰も同様で、重さの乗せどころがどこに在るのかによって、下肢は別として、半分の筋肉を休めることが出来る事実を実感することも連動して理解できるようになる。

「懸垂」を行っている時の腕の中身の在り方・半分の筋肉は休んでいること。屈げる時も伸ばされる時も働くのは「屈筋」で、最初から最後まで「伸筋」は休んでいる。
 そうした言葉のイメージをもつだけでなく、実際に「木刀」を振ることで実感できることに気づいたのは、私としてはものすごく嬉しいことだった。

 状態の「差異」を感覚する、拮抗筋の働き方とその関係を、事実としてからだで体験できる条件を見つけるには、これほどまでに長い時間がかかってしまった。
「懸垂」も「木刀」も、おろしてくる時に、重さそのものに任せ切ってしまっては一気に落ちる。それでは危ない。ここで反対側の筋肉が働く理由は、落下の速度を和らげるためにブレーキとして働くことである。
 落下するままに任せたら、止まる時までに丁度良いコントロールが利かない。
 大事なことは、ある点で、ピタッと止めることが出来なければならない、とするならば、減速が上手くできる能力が求められる。減速が上手くできると、自分が狙ったところでピタッと止めることができる。
 物もからだも落ちすぎないために、速度を徐々に和らげる感覚こそ力である、と言える。

 今週の月末の土曜日は、この第一章『状態の「差異」を感覚する』を、再度テーマとして扱ってみたいと思っている。
 なんと、前回のレッスンで、北村さんが一人居残り練習をして、「木刀ふり」の骨をつかみはじめたご様子。 さぁ、もう一押しして身につけていただこう。ご出席ならば、ですが。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする