羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

輪番停電(計画停電)

2011年03月26日 11時47分37秒 | Weblog
 時代は変わったのです。
 
 なんとなく東電のやり方は「電気を使わせてやっている」的な感じがするのは私だけだろうか。
 強制的な停電にしなくても、各業種の企業が工場の稼働時間を譲り合って計画を立てるとか、会社では自宅でできる事は自宅で行わせるとか、個人レベルでも節電を徹底的に行うとか。
 使う人の自主性と意思を尊重するようなあり方はないのだろうか。当初は仕方がない、としてもこれからの問題として選択肢は皆無なのだろうか。

 朝のニュースで宇都宮の居酒屋さんが、閉店する話があった。客が減ったこともあるが、計画停電実施の知らせが遅くて、予定もたてられず、予約の客もとれないからだ、という。
 そして思いがけない人が、年寄りの一人暮らしで火の危険を感じてオール電化にしてしまった。卓上コンロは売り切れで、町に一軒のこっていた炭屋(現在は灯油屋)で、最後の七輪を手に入れてきたと聞いた。「密閉度の高い屋内での使用は怖いですね」と電話で話をした。
 こうした一人一人の生活者がいることに思いを馳せてほしい。
 
 いずれにしても区分けもよくわからないし、その日になってやるの・やらないのといわれても、対処の仕様がない。
 電気を使う人たちを大事にしてほしい、というのは贅沢なのだろうか。非難覚悟でいわせていただけば、原発がなくなると、これほど不自由なんですよ、とおっしゃりたいのか?
 がむしゃらな原発反対者ではないけれど、エネルギー政策を考え直すことはしなければいけない、とかねがね思ってきた。でも行動にはしなかったことに忸怩たる思いだ。
 
『人間の創造は、もともと自然の範囲内で行われるべき、ささやかなつつましやかなものではないだろうか。たとえそれが、ささやかなつつましやかなものであったとしても、そのものやことと、大事に大事に触れ合い解け合うことによって、無限の豊かさと新鮮さを生み出す能力があたえられているのではないだろうか』野口三千三『原初生命体としての人間』岩波現代文庫より
 このはしがきの文章が今ほど胸に響く時はない。

 この場に至っては、なんとか原発をおさめるために人智を尽くす以外にない。
 現場で必死の作業をされている方々はいかばかりか、とただ想像するしかできないもどかしさ。
 
 唐突だが、海も空も世界とつながっている。一つの地球なのだ。人はこの星で生きるしかない。
 そして、私の生きる場は、ここ、東京なのだ。
 今朝、太陽が昇ったばかりの空を見て、そう思った。
コメント (2)
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