羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

和讃 花まつり

2011年03月28日 14時54分31秒 | Weblog
 血のつながりはないが、私のことを「お姉ちゃま」と呼んでくれる友人がいる。昨日、彼女が会主をつとめる「第五十八回 あかつき会演奏会」を聞かせてもらった。
 今年は「豊山流大師御詠歌」が特別企画として演奏されたが、この震災で亡くなられた方々を供養するかのような厳かさが、会場に醸し出された。
 ご両親のあとをついで邦楽の家を守っている彼女が、御詠歌に「邦楽手付」、つまり西洋的な表現をすれば伴奏パートを作曲して、華を添えている。真言宗豊山派有縁寺僧侶方々に、琴と三味線が加わったのだ。
 はじめて和讃を聞かせていただいた。客席に身を置きながらも、お遍路さんが寺々をまわる姿が見えてきた。
 さらに穏やかにゆれるリズムに目を閉じて任せていると、五木寛之が描いた『親鸞』が思い出された。歌合わせの場で、僧侶たちが美声をほこって競う。いちばんの歌い手の僧侶は、そこに集まった民衆たちをも魅了して、上下の隔てなく皆を陶酔境へと導いていく。歌われる声とそれを聴く人々の情動が、一つのうねりとなって夜空の闇をあかあかと照らす。そこに浄土が出現する、という話なのだ。

 さて、客席に戻そう。
 新山玉峰が奏でる琴の音は、御詠歌を支えるというより、御詠歌そのものだった。これほど魂が昇華していくような彼女の演奏を聴いたのははじめてではないだろうか。
 法要で散華する。琴の音はその華そのものなのである。
 演目のひとつ「花まつり和讃」は、灌仏会に釈迦の誕生を祝う和讃だ。しかし、私にとっても早々に誕生日を祝ってもらったような気分だった。
 余震におののき原発に恐怖を覚える日々だが、浄土は我が心のうちにあること。そのことに気づかされたような一時だった。
コメント (2)
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