羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

最近の龍馬伝

2010年10月07日 07時50分32秒 | Weblog
 しばらくブログに書き込みができなかった。
 先週土曜日の朝日カルチャーセンター「一日公開講座」以来、連日レッスンと授業、大切な所用等をこなし、その合間に、来客を迎える準備や日常の家事で、毎日は充実していたが、パソコンに向かうゆとりがなくなっていた。

 
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 毎週、楽しみにみている「龍馬伝」だが、薩長連合を山場にして、今ひとつの観がある。後は、お尋ね者として追われ死に向かって一直線、というのが、わかっているだけに心がそがれる部分があるのかな? もし、暗殺されなかったら、明治に入ってどのように生きたのだろう、という仮説はまったく成り立たない。だからこそ、逝き(生き)急ぐような切迫観が、もっとあってもいい。
 かつて山内容堂との関係で緊迫感を出した武市の切腹までのドラマには、凄さがあった。先が見えないなかで、理不尽さに命を落とすものと理不尽を強いるものの間に張られた糸がいつ切れるか、とねばりが見る者をひきつけていた、と今になって思う。

「大政奉還」の幕末、すでに主役は龍馬から、したたかな山内容堂と後藤象二郎に移っているところからくる龍馬伝の物足らなさかもしれない。歴史とはつくづく残酷なものよ。

 さて、気持ちをずらしてみる。物語として受け止めているから、史実がどうのこうのという意識はない。フィクションがあってもそれはそれで楽しんでいるが、さすがに思う。行く先々で女にもてる龍馬に対して、ファイナルに入ったこの頃、土佐にいる‘かお’はいったいどうしているのかな。坂本家の人々はどんな暮らしをしているのだろう。ひとえに福山龍馬がかっこいい。格好よければよいほど、最初の女の生き様が気にかかってしまう、私なのだ。それを取り上げていたらドラマにならない。網の目のように人を描き出したら、話の筋は通らなくなる。
 でも、二人で取り交わしたようなしないような許婚のかおさんくらい、どうなっているのかなぁ~。
 もう一つの‘もし’を言わせてもらえば、‘生まれてくる時代が少し前だったら、同じ人間にはまったく異なった物語が描かれただろう’と。
 人間の幸福とは何か、を考えさせられた。

 はてさて、本日は、戯言でした。
コメント
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