羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

住まいと言う名の身体

2010年08月09日 07時23分26秒 | Weblog
 我が家の蔵は、三間+二間半、昔の言い方で表現すれば、建坪は十五坪ほどになる。
 穴の開いたお釜、使わなくなった布団類、蚊帳、……、ありとあらゆる日常品もしまわれている。

 三年越しの整理で、隠れ部屋を確保できたことで、今朝はホッとしている自分を感じている。 
「指がうごかなーい」
 悲鳴をあげながらも、一年以上していなかったピアノ練習を再開できたことは嬉しい。
「下手になったっていいのだ!」
 これまでしまいこんでいた楽譜に囲まれて、練習時間が持てる満足感に浸っている。
 演奏の上手下手はどっちでもいい、と決め込んだ。

 部屋の空気を抜くために、連日、窓を開けるのが朝の日課となった。
 蔵には、一階北側に一つ、二階東と西に一つずつ、計三箇所しか窓がない。
 入り口の扉は真南についていて、幅はメートルにして一メートルはある大きなものだ。
 これらを夕方まで開け放ち、扇風機を時々まわし、除湿機を使っている。
 たかだか二週間くらいだが、気にかかっていた匂いが、全くなくなったわけではないけれど、不快感は減少してくれた。

 風水の考えに従わなくても、‘からだに貞く’ことをすればよい、と身をもって知った。
 余分な水分はからだの外に老廃物と一緒に流してやる。カラカラに渇いた時には水分を補ってやる。つまり除湿と加湿のバランスを一年間で上手く取っていくこと。
 そしてなによりもからだの細胞の隅々に風を通してやる。さらに適度に太陽に当ててやる。
 つくづく感じた。住まいはからだが拡張されたものだ、ということを。
 一番大事なことは、人がそこに常時‘住まうこと’なのだ。暮らすことなのだ。
 住まうとは、暮らすとは、生きものがそこで生の営みを行っていること。日常の暮らしを営むことが‘物の命を繋ぐ’ことに他ならない。
 自分のからだに気持ちよいことを、住まいにも拡張して行う感覚こそ大事だ、と悟った次第。
 さーて、拡張された身体とともに、空間を生きよう、時間を生きよう。
 一連の片づけから、そんな心境に導かれようとは思いもかけないことだった。
コメント
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