電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

白菜は陽に当てると甘くなる

2009年12月16日 06時21分23秒 | 週末農業・定年農業
先月末に収穫した我が家の白菜は、老母が丹精しただけあって、見事に結球しました。11月末~12月上旬は白菜等の漬け込みの時期なのですが、我が家では、漬ける前に白菜を半分に切り、太陽の光に当てて数日「干し」ます。こうすると、水分も減少しますが、自然な甘味が増すのだそうです。

白菜は、漬物に良し、鍋に良し、いろいろな料理で活躍します。単身赴任の宿でも大活躍です。先日は、白菜をざくざくに切り、トマトとブロッコリーとしめじと塩鮭の切り身をコショウで炒めました。これは、白菜のスープにトマトの酸味と塩味が効いていて、なかなか美味しかった。写真を撮るのを忘れて、残念でした(^o^;)>
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雪の日、ブログサイトのメインテナンス

2009年12月15日 21時35分16秒 | ブログ運営
12月15日に、goo ブログのメインテナンスが行われました。当初の予定は、6:30~9:30の予定とのことでしたので、当方は早々と5:25に更新を行いました。
明るくなって外を見ると、昨日から降り続いた雪で、けっこう積もっており、一面の雪景色です。アパートの駐車場に置いた車にも、のっそりと雪が乗っています。
その後、予定どおりメインテナンスが行われたようで、夜に確認した所、無事表示されておりました。
ブログサイトのメインテナンスといえば、先の Doblog の不調とサービス停止を思い出してしまいます。ハードディスクは消耗品と同じで、使っているうちに確実に壊れ、システムの不安定さは増加することでしょう。スタッフの方々の苦労は多いことと思いますが、多くのユーザーの利用するサービスが安定して継続できるよう、確実な保守をよろしくお願いいたしますm(_ _)m

写真は、今は珍しいセパレート型ステレオです。某所に、ちゃんと完動品があることに感動してまいりました。これも、保守が大事な実例かも。この話は、また後日。
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NHK-FMでロストロポーヴィチとオーマンディによるショスタコーヴィチVc協奏曲を聴く

2009年12月15日 05時25分58秒 | -協奏曲
日曜の朝、NHK-FMで「20世紀の名演奏~オーマンディ指揮、フィラデルフィア管弦楽団の世界~」を聴きました。イベールの「寄港地」に始まり、ボロディンの「ノクターン」、チャイコフスキーの「アンダンテ・カンタービレ」、レスピーギの「ローマの松」、ムソルグスキーの「展覧会の絵」など、いかにも弦楽出身らしい華麗な演奏がプログラムされていますが、その中でも、ショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第1番、変ホ長調Op.107 をじっくり聴いてしまいました。

この曲は、実演に接したのは一回だけ、2006年の9月の山響第175回定期演奏会(*)で、工藤すみれさんのソロでした。第2楽章の緊張感に満ちた音楽は、ナマで聴いてはじめて実感できたという記憶があります。

WEB上に発表されたNHK番組表には、独奏者の名前が書いてありませんでしたが、諸石幸生さんの案内によれば、チェロ独奏はムスティスラフ・ロストロポーヴィチで、旧ソ連における初演の後、作曲者も同席して米国初演を行ったのだとか、おそらく作曲者の信頼も厚かったのであろうと思われます。意外にも現代音楽への理解も深いというオーマンディのサポートで、やや毒のあるショスタコーヴィチ後期の作品を、じゅうぶんに堪能しました。

(*):山形交響楽団第175回定期演奏会を聴く~「電網郊外散歩道」
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日曜劇場「JIN~仁~」のこと

2009年12月14日 06時04分59秒 | 映画TVドラマ
以前から、日曜劇場「JIN~仁~」という番組が好評であることは承知しておりました。いつも楽しみにしているブログ等で、この番組の好評をよく目にします。でも、なにせ日曜夜9時といえば、当方にとっては1週間に1度のN響アワーの時刻です。なまじ見てしまうと面倒だと、実は敬遠しておりました。

ところが、先月末の日曜はN響アワーがお休みで、「オーケストラの森」で某全国紙の名を冠した在京オケを取り上げる予定となっておりました。別に、某全国紙の山形支局が我らが山響第200回定期演奏会を黙殺したからというわけではありませんが(^o^;)> ためしにこの好評のドラマを一度見てみようかとテレビの前に。

わ~お、江戸時代にペニシリンだって!外科手術だって!現代からタイムスリップした脳外科医が、幕末の江戸で苦闘するというヒューマンドラマ(?!)なのですね。なるほど、想定はかなり荒唐無稽でも、細部のリアリティはかなり丁寧です。それぞれにはまり役の出演者の中では、「蝉しぐれ」で牧文四郎を演じた内野聖陽さんの坂本龍馬が、いかにも暑苦しい見事な役作りで(^o^;)、来年の大河ドラマの龍馬役の人は随分やりにくいんじゃないかと思います。人気が出るのもうなづけますね~。これは続けて見てみようかなといろいろ工夫して三回分を見ることができましたが、エッ、あと一回で終わりなの?残念!
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藤沢周平『花のあと』を読む

2009年12月13日 05時40分07秒 | -藤沢周平
文春文庫で、藤沢周平著『花のあと』を再読しました。映画『花のあと』の公開(*)もそう遠くないはず。こちらも楽しみです。

第1章「鬼ごっこ」。推理仕立てです。元盗人が身請けしていた女が殺されます。目明しの目を逃れながら、下手人を探す吉兵衛の緊張感が伝わります。
第2章「雪間草」。藩主の側妾に上がる前に許嫁だった服部吉兵衛が、藩に対し罪を犯したといいます。主君がまとめた借金話を一存で断ったというのです。激怒する藩主に対し、今は尼となっている松仙が強く求めたことは何だったか。緊迫感の中にもユーモラスなところがある、後味の悪くない佳編です。
第3章「寒い灯」。嫁姑の争いはよくある話ですが、病気になった姑の世話をしているうちに別れ話を切り出すのをうっかりしてしまいます。でも、その人のよさのおかげで、女衒の手口から逃れることができそうです。
第4章「疑惑」。美貌の女主人が仕組んだ、養子への奸計。それを見抜いた定町廻り同心の眼力はさすがです。
第5章「旅の誘い」。『暗殺の年輪』に収録された「溟い海」では、葛飾北斎から見た安藤広重が描かれていますが、こちらは広重から見た北斎観が描かれます。と同時に、作品の目利きであった男が、商売の欲で目が曇ってしまう姿も描かれ、こちらは編集者の姿の仮託なのでしょうか。
第6章「冬の日」。不遇な男女が、偶然にもしばらくぶりに再会し、互いに過去を悔いながら、将来にわずかな明るさと温かさを予感させる、いかにも藤沢周平らしい市井ものです。
第7章「悪癖」。酔って相手の顔をなめるという奇癖を考えた作者は、こんな酔っ払いに辟易した経験でも持っていたのでしょうか。それとも、可愛さのあまり、赤ちゃん時代の娘の鼻でもペロリとやったことがあったのでしょうか(^o^)/
第8章、表題作「花のあと」。一人娘に剣を教え、希望を託す父親は、江口孫四郎と試合をした男まさりの以登の想いを知りながら、片桐才助との縁談をまとめます。このあたり、男の器量についての、聡明な父親の冷静な判断があったのでしょう。語り口のユーモラスさに紛れてしまいがちですが、この内容は、実に切ない話なのですね。祖母(ばば)様の年輪が悲話を昇華させているようです。映画になった場合、映像のリアルな訴求力が、はたしてこの軽妙さを表現できるものかどうか、公開に期待したいところです。

作者の円熟期の佳編を集めた本書も、期待を裏切らない、リアルなおもしろさがあります。

(*):藤沢周平原作の映画「花のあと」先行上映を観る~「電網郊外散歩道」
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手作りのネクタイピンとカフスボタン

2009年12月12日 06時26分00秒 | Weblog
女性にアクセサリーがあるように、男性にもお洒落な小物がありました。ネクタイピンとカフスボタンは、その代表的なものでしょう。昔は、あらたまった席には、カフスボタンをして出席したものでしたが、キーボードを打つのに邪魔になることから、ここ20年ほど、カフスボタンをすることはありませんでした。そういえば、若い頃に使っていた珊瑚や猫目石のカフスボタンを、どこにしまったかすぐには思い出せないほどです。

ところが、先日、妻から手作りのカフスボタンとネクタイピンのセットをもらいました。最近、こういったアクセサリー手芸に凝っているようで、布地を生かして和風のものをいろいろ作っているようです。

うーん、若い頃はカフスボタンをすることがあったのだなぁと、妙なところで昔を思い出してしまいました。たまには、手作りのカフスボタンでお洒落をして(?) 外出してみませうか(^o^;)>poripori

そんなことを一言もらしたものだから、もう大変。今日は、なんとかいうお店に行って、何か手芸の催し物を見てきたいのだそうです。では、お付き合いすることにいたしましょうか。
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諸田玲子『灼恋』を読む

2009年12月11日 06時14分35秒 | 読書
新潮文庫で、諸田玲子著『灼恋』を読みました。いやはやなんとも、こういう物語を構想すること自体が、当方のような理系の石頭にはすでに理解の範囲を超えております(^o^)/

京の公家・橘正兼の娘・染子が、父を亡くし、江戸の徳川綱吉のもとに仕える経緯は、まあ理解できますが、後半の、柳沢吉保を加えた三つ巴の愛憎劇は、思わず笑ってしまいました。作者が真剣であればあるほど、珍妙さが浮き彫りになるようです。観念の中で作られたドラマは、昼メロのうそくささに似て、どうも中年おじんの感受性には不向きのようです。

『お鳥見女房』シリーズ、『末世炎上』など、作者の忠実な読者らしからぬ不届きな物言いは、酒席の後の酩酊の中で読み終えたためでしょうか、再読後はまた別の感想もありうることでしょう。

ただし、収穫もありました。Wikipedia で徳川綱吉を調べてみたら、「犬公方」と嘲笑される暗君説はどうも後年の作られたイメージのようで、実際はだいぶ違っていたらしいとか。山室恭子『黄門さまと犬公方』(中公新書)なる本があるらしい。興味関心は、かくのごとく派生して広がります。
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マーラー「交響曲第6番」を聴く

2009年12月10日 06時19分36秒 | -オーケストラ
ここしばらく、あちこち出張をはさみながら、ずいぶん長い間、マーラーの交響曲第6番を通勤の音楽としておりました。作曲者44歳の1904年に完成された、Wikipedia によれば「彼の交響曲中、最も完成度の高いもの」(*1)だそうです。聴いているのは、エリアフ・インバル指揮フランクフルト放送交響楽団による演奏で、DENON の CD 2枚組、60CO-1327-28、たしか発売と同時に購入したレギュラー盤です。

作曲家44歳の1903年の夏に、休暇を利用して作曲を進め、第1楽章から第3楽章までを完成、翌年の夏に、「亡き子をしのぶ歌」とともに第4楽章を完成したのだそうな。Wikipedia の同記事にある楽器編成を見て、あらためて驚き呆れました。
ピッコロ、フルート(4:ピッコロ持ち替え2)、オーボエ(4:イングリッシュホルン持ち替え2)、イングリッシュホルン、クラリネット(4:ソプラニーノクラリネット持ち替え1)、バスクラリネット、ファゴット(4)、コントラファゴット、ホルン(8)、トランペット(6)、トロンボーン(4)、チューバ、ティンパニ(2)、グロッケンシュピール、カウベル、むち、低音の鐘、ルーテ、ハンマー、シロフォン、シンバル、トライアングル、大太鼓、小太鼓、どら、そりの鈴、ウッドクラッパー、ハープ、チェレスタ、そして弦5部、というものです(^o^)/
たしかに「普通じゃない」。これは、当時の新聞等に、様々に揶揄される記事が出たのも無理はありません(^o^)/
でも、音楽はキワモノではありません。

第1楽章、アレグロ・エネルジコ、マ・ノン・トロッポ、イ短調、4/4拍子。多人数の軍隊の行進のような、行進曲ふうのリズムで始まります。ときに不安気に、ときに威嚇するように、音楽はこの楽章だけで十分に一曲ぶんのボリュームです。
第2楽章、スケルツォ、重みをもって、イ短調、3/8拍子。独特のリズムで、ヒグマのスキップみたいな音楽で始まります。中間部、必ずしもリズムに乗らない、ムラ気な様子もあり、音響的にも面白いものです。
第3楽章、アンダンテ、変ホ長調、4/4拍子。やわらかな始まりですが、優しく幸福な牧歌とばかりは言えないものがあります。忍び寄る不安の影。いかにもマーラーの緩徐楽章らしい、この楽章の繊細な美質は、冬タイヤのロードノイズに隠されてしまって、必ずしも通勤の音楽には適さないようです。
第4楽章、フィナーレ:アレグロ・モデラート。ハ短調、2/2拍子。様々な鳴り物を駆使した巨大な音響と、対立する旋律が息長く展開される、長大で、厳しく迫力にみちた音楽です。たしかにハンマーは効果的ですが、それだけがクローズアップされるわけではない。全体の中で、打ち倒されるような衝撃を表す、そんな役割でしょうか。高揚する金管群が、クライマックスを盛り上げます。

添付のリーフレットには、録音についての技術的な解説も掲載されていました。それによれば、第4番のように、従来ワンポイント・ステレオ録音を主体としてきたけれど、この第6番のような楽器編成の場合、ワンポイントですべて収録するのは難しい。しかし、マルチマイクでミキシングすると、実際に音が伝わる速さとマイクロホンからケーブルを伝わる音声信号電流との間で、遅延が起こってしまいます。そこで、ワンポイント録音を主体とし、ムチやハンマーといった特殊楽器には補助マイクを立てて、デジタル遅延ミキサーで調整する、という手法がとられたのだそうです。

その効果は、たいへん自然な形で成功しており、直接音と間接音とが、バランス良く収録されていると感じます。DENON の代表的な名録音の一つでしょう。

■インバル指揮フランクフルト放送響
I=24'24" II=14'46" III=14'36" IV=30'03" total=83'49"

マーラーの交響曲第6番には、ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団による正規録音もあったはず。こちらは、残念ながらまだ入手しておりません。今後の楽しみの一つです。
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速水敏彦『他人を見下す若者たち』を読む

2009年12月09日 06時13分36秒 | -ノンフィクション
講談社現代新書で、速水敏彦著『他人を見下す若者たち』を読みました。帯に大書された「自分以外はバカ」の時代!というキャッチコピーは、いかにも当世の風潮を表しておりますが、内容は若者の心理を研究してきた学者の随想風な啓蒙書といったところでしょうか。
構成は、次のようになっています。

第1章 感情が変わった
第2章 やる気が低下する若者たち
第3章 他者を軽視する人々
第4章 自己肯定感を求めて
第5章 人々の心に潜む仮想的有能感
第6章 自分に満足できない人・できる人
第7章 日本人の心はどうなるか

ここで、キーワードは「仮想的有能感」という著者の造語でしょう。これは、「過去の実績や経験に基づくことなく、他者の能力を低く見積もることに伴って生じる本物でない有能感」(p118)という意味だそうです。著者は、仮想的有能感と自尊感情とをクロスさせ、四つのタイプに分類していますが、これは面白い考え方です。また、仮想的有能感は若者だけの特徴ではなく、世代により、文化により影響されるものとされていますから、当方の若い時代の失敗なども、ほろ苦く振り返ることも可能です。また、子育てを終えた立場からは、

親は子どもをユニークな目立つ人物に仕立てようと画策する。それはそれでよいことだが、子どもの独自性ばかりを求めて、普通の大人になるために必要な行動・態度を身につけさせる社会化のための訓練を忘れてしまっているように思われる。(p.207~8)

という指摘は耳が痛いものです。
仮想的有能感というのは、学問的に評価の定まった概念ではないようで、著者自らあとがきの中で「今後、地道な心理学的研究を蓄積する必要があると感じている」と述べているように話題先行の感もありますが、心理学の立場からの一つの見方として、たいへん興味深く読みました。

写真は、文翔館二階ベランダから見た東側(奥羽山脈方面)の眺めです。
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DellのUbuntuネットブックにおける強制的最大化について

2009年12月08日 06時15分47秒 | コンピュータ
アプリケーションを起動したとき、ウィンドウ・サイズが最大化されたほうがよいのかどうかは、利用者の流儀や事情によるところが大きいと思いますが、当方は複数のウィンドウを開いて作業することが多く、最大化しないほうがありがたいのです。とくに、昨今のネットブックのような横長のディスプレイでは、一行の長さだけがやけに長くなり、読みにくいことこの上なしです。むしろ横幅を抑えて、正方形に近いウィンドウ・サイズで、横に並べて配置するほうが画面が見渡せて良いと感じます。

そんな事情から、Dell の Inspiron Mini10v における、アプリケーションのウィンドウ・サイズ強制最大化のしくみを調べてみました。すると、どうやら maximus というのがその役割をになっているらしい(*1)。

(*1):Dell Inspiron mini 9でDell版Ubuntuを活用する(1)より「最大化」~Ubuntu Weekly Recipe

それによれば、

/etc/xdg/autostart/maximus-autostart.desktop

というファイルの一部をちょこっとだけ直すことで、自分で管理ができるようになるとのこと。で、やってみました。ふつうに「アプリケーション」-「アクセサリ」-「テキストエディタ」で gedit を起動し、該当のファイルを開いて編集を保存しようとすると、「権限がない」と叱られます。そこで、Ubuntu Linux のお約束、ターミナル上で、sudo コマンドで gedit を起動することとしました。

$ sudo gedit /etc/xdg/autostart/maximus-autostart.desktop

面倒な長~いファイル名は、途中で TAB キーを打つと、自動的に補完してくれますので、楽チンです。そしてこのファイルの最後にある、

NoDisplay=true を

NoDisplay=false

に変更して保存終了。これで、いったんログアウトして再びログインすると、「システム」-「設定」-「セッション」に、

■Maximus Window Management

の項目が増え、見えるようになっています。そこでこのチェックを外し、閉じます。

ここで再びログアウトして、新しいウィンドウ環境でログインします。ためしに gedit を起動すると、前回の終了時と同様に最大化しますので、ウィンドウサイズを調整して保存しました。次に起動したときは・・・ちゃんと調整したウィンドウサイズで起動しました。やったね!

これで、小さな awk スクリプトを書いて、テキスト備忘録の検索加工処理が「見える化」できます(^o^)9
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DellのネットブックInspironMini10vでは、何がウィンドウを最大化するのか

2009年12月07日 06時32分56秒 | コンピュータ
先に購入して、無線LANを便利に使っている、Ubuntu Linux 採用のネットブック、Dell Inspiron Mini10v ですが、アプリケーションを起動したときにウィンドウが必ず最大化されるのか気になっておりました。これが、たとえばテキストエディタの emacs あたりですと、emacs.rc 等の環境設定ファイルに起動時のウィンドウサイズを記述しておくということは考えられますが、ブラウザ Firefox でもメーラ Sylpheed でもゲーム(^o^)でも、みな同様に横長サイズに最大化されるのは、いかにもスマートとは言えません。自宅のデスクトップで使っている Ubuntu Linux では、そんな現象は見られません。はて、この強制的最大化のしくみは、どうなっているのだろう?
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レオン・フライシャーのこと

2009年12月06日 06時13分45秒 | クラシック音楽
先日、ちょいと酒席があり、ご機嫌で宿泊先の部屋に戻りました。テレビで、レオン・フライシャーの番組を放送していたので、思わず見入ってしまいました。金曜の夜、22時30分からのNHK教育テレビ、「芸術展望」です。特集されていたのは、ピアニストのレオン・フライシャー。ジョージ・セルとクリーヴランド管との録音で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集(*1,*2,*3,*4,*5)や、グリーグ、シューマンのピアノ協奏曲(*6,*7)等を好んで聴いている演奏家です。

その才能を愛され、将来を嘱望されていたシュナーベル門下の青年ピアニストが、たまたま指を怪我して練習を休み、回復してから猛練習したのがたたったのか、右手の小指と薬指が、曲がったまま伸ばせなくなるという症状が現れます。困ったことに、日常生活ではまったく問題がなくて、ピアノの前に座ったときだけ、この症状が現れるというのです。

おそらく、自分で自分を叱りつけ、なんとか演奏しようとしたことでしょう。でも、指は動かない。このときのふがいなさ、絶望感は、察するにあまりあります。これは、実は局所性ジストニア(*8)という病気だったことがわかります。脳の一部の基底核と呼ばれている部分の機能障害で発症する病気ですから、気持ちの持ち方でどうにかなるようなものではありません。フライシャーは、諦めずに様々な治療法を試します。左手のピアニストとして活動する他、指揮者として、教育者として活動しました。たしか、一時肩を痛めて、指揮者としての活動も休止していた時期もあったはず。たいへん困難な半生と言えます。

やがて、ボツリヌス菌の毒素を用いるという治療法とリハビリが功を奏し、40年ぶりに、両手のピアニストとして復活します。もちろん、右手の自由度は、若い時代と同じではありません。でも、超絶技巧でバリバリ弾きまくるような年代はとうに過ぎています。音楽の深さで、説得力ある演奏を展開します。最後の曲目、シューベルトのピアノソナタまで、酔っ払いにはもったいないほどの、実に素晴らしい時間でした。

(*1):ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第1番」を聴く~電網郊外散歩道
(*2):ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第2番」を聴く~電網郊外散歩道
(*3):ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第3番」を聴く~電網郊外散歩道
(*4):ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第4番」を聴く~電網郊外散歩道
(*5):ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」を聴く~電網郊外散歩道
(*6):グリーグ「ピアノ協奏曲」を聴く~電網郊外散歩道
(*7):R.シューマン「ピアノ協奏曲イ短調」を聴く~電網郊外散歩道
(*8):ジストニアとは
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山形交響楽団を応援します~事業仕分けでオーケストラの危機!

2009年12月05日 06時29分12秒 | クラシック音楽
私は、山形交響楽団を応援します。

原爆症に伴う体調不良に悩んでいた父親の願いを思い、当初就職先の関東某県からUターンして30年、現在の楽しみは、山形交響楽団の演奏に接することです。
報道等によれば、文化庁の各種事業が、ばっさりと縮減の方向が出されたようです。
われらが山形交響楽団を含む、各地方オーケストラの活動が、その存続を含めて大きな影響を受けるようです。
地方オーケストラは、各地方にとって、かけがえのない存在だと思います。
子供たちが、学校でオーケストラ音楽に触れることは、感動の体験です。
教育や文化等の面で、高い公益性をもっていると信じます。
関係者には、当該助成金等の維持存続、拡充を図ってくださるよう切に願うとともに、心ある方々の応援をお願いいたします。

参考までに、山形交響楽団ホームページ(*1)、音楽監督・飯盛範親さんの記事(*2)、より具体的には、同響ヴィオラ奏者のらびおさんの記事(*3)をごらんください。

(*1):行政刷新会議「事業仕分け」に関する意見をお寄せください~山形交響楽団ホームページより
(*2):例の事業仕分けで日本のオーケストラが大変なことに~「シェフ飯盛範親の窓」より
(*3):山形響の火を消さないために~「らびおがゆくVol.3」より

写真は、過日の文翔館ウェディングの記念写真撮影風景。文翔館とは、旧山形県庁の建物を、10年がかりで文化財として修復保存し、無償公開しているものです。赤いカーペットの上を歩くのは、主権者である県民であり、主として県民が利用するのに入場料を取る必要はない、とした当時の知事の判断に、敬意を表したいと思います(^_^)/
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『日本の名随筆 別巻28 日記』を読む

2009年12月04日 06時17分23秒 | 読書
作品社から1993年に刊行された『日本の名随筆別巻』シリーズから、大原富枝編の第28巻『日記』を読みました。掲載されている文章は、次の各氏のものです。

鏑木清方/串田孫一/團伊玖磨/河盛好蔵/三木清/野上彌生子/別役実/後藤明生/紀田順一郎/久保田万太郎/大岡昇平/竹西寛子/田辺聖子/井上ひさし/安岡章太郎/遠藤周作/佐多稲子/吉屋信子/秋山ちえ子/森本毅郎/黒井千次/中野好夫/鈴木力衛/林達夫/松本道介/青木正美/徳川無声/芥川比呂司/吉増剛造/山川静夫/北杜夫/大原富枝/鍋島圭子

いずれも、「日記」という題で書かされた大人の作文という趣きで、懐古調あり論文調あり、中には中野好夫氏のように、日記など書かぬがよろしいと喝破するものまで、多種多様です。

冒頭近くに編まれた串田孫一氏の「日記」という文章は、幼い頃の体験から始まり、絵入りの日記を時間をかけて丹念につけていた頃の回想へと進み、日記を書く習慣についての考察に進むオーソドックスなものです。ここで触れられた『アミエルの日記』は、次の河盛好蔵さんの「現代・手紙日記作法」では、「全部が173冊のノートブック、1万7千ページにわたる非常に大部な日記からのほんの抜粋」にすぎないのに、それがすべて「自己自身との対話」であることに驚き、「たしかに異常性格者というべきでありましょう。」とされています。

永井荷風の日記は、かなり創作が入った、「他人に読ませるためのもの」であるという指摘は、数人の筆者が共通に指摘しておりますし、お天気や時事的な雑録が、後年史料的な価値を持つことも指摘されています。随筆集は、断片的に拾い読みする楽しさがありますが、年譜を作る仕事でもなければ、他人の日記も通読するものではなくて、断片的に目に入った面白さがポイントなのでしょう。
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過去の記事を読み返す楽しみ(2)

2009年12月03日 06時31分00秒 | ブログ運営
ブログを長く続けていることで発見した楽しみ、それは「過去の記事を読み返す」というものです。前回は、当「電網郊外散歩道」の主要なカテゴリー「音楽」「読書」「コンピュータ」関係の記事の中から、記憶に残るものを三つずつ選び、ご紹介しました。今回は、それ以外の記事から、選んでみます。

■Weblog関係
(1)葬儀と初七日と四十九日~儀礼と本質(2006/10/04)
(2)電網郊外散歩道流「ブログ文章構成法」(2007/11/27)
(3)料理のできる男性は(2008/11/07)

■映画関係
(1)映画「魔笛」を見る(1),(2) (2007/09/14,15)
(2)「のだめカンタービレ」を観る(1),(2) (2008/01/05,06)
(3)お正月に「K-20 怪人二十面相・伝」を観る(2009/01/05)

■アホ猫関係
(1)ネコ枕(2006/08/21)
(2)アホ猫とは言わせませんわ。(2007/09/04)
(3)立てば芍薬、坐ればアホ猫(2008/06/06)

■その他
(1)普通の庶民のモラルの高さ(2004/12/21)
(2)「芸は人なり」を噺家はどう理解したか(2005/02/21)
(3)紙が先か筆記具が先か(2008/08/27)

思い付く限りでトピックをひろい、過去の記事をあげてみましたが、ご覧の皆様は当「電網郊外散歩道」の過去記事で、「あれはよかった」というものがありましたでしょうか。コメントなどいただければ幸いです。
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