電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

映画「のだめカンタービレ最終楽章・前編」を観る

2009年12月28日 05時59分51秒 | 映画TVドラマ
歳末の日曜日、久方ぶりの好天に誘われて、妻と映画を観に出かけました。山形市嶋地区のムーヴィーオン山形です。例によって八文字屋書店で開演時間を待ちます。11時30分の回ですが、客席は満席とはならず、中央部が埋まる程度でした。観客は比較的若い世代が多く、当方のような「夫婦50割引」該当の世代は少数派かと思ったら、他にも何組か見かけました(^o^)/
昨年の正月に、テレビでヨーロッパ・スペシャル番組を続けて観て(*1,2)、すっかりファンになった「のだめカンタービレ」の、その後を描く映画バージョン「最終楽章・前編」です。

物語は、指揮者コンクールでジャンらをおさえ優勝した千秋真一が、師シュトレーゼマンが若き日に活躍した、伝統あるマルレ・オーケストラの常任指揮者のポストを得るところから。ところがこの楽団は問題山積でした。楽員は生活に追われ練習もままならず、意識と演奏レベルの低下が定期会員の減少を招き、悪循環から130年の伝統を誇るオーケストラも崩壊寸前です。ラヴェルの「ボレロ」、デュカスの「魔法使いの弟子」等のプログラムによるデビュー公演も、散々の出来になってしまいます。ただし、楽団を独裁的に支配するコンサートマスターと、はじめはぎくしゃくするのですが、楽員のオーディションあたりから不思議と千秋との共通点が浮き彫りになっていきます。要するに、なんとか愛する楽団を立て直したいという空回りだったのですね。それが、若き独裁者たる音楽バカ・千秋真一の就任で、皆の目の色が変わってきます。しつこい千秋の要求に反発、生活との両立に疲労困憊しながらも、楽員の懸命の努力が続きます。このあたり、ちょいとジンときますね~。

そして迎えた新シーズンの初回公演。チャイコフスキーの大序曲「1812年」、J.S.バッハのピアノ協奏曲第1番(千秋のピアノ弾き振り)、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」。「1812年」の演奏は、本物の大砲をぶっ放す効果も取り入れられ、なかなかドラマティックです。玉木君の指揮ぶりも、テレビ版のブラームスの交響曲第1番のときよりも格段に進歩し、肩の力が抜けて、とてもスムーズになっていました。もっと表情に柔らかさがあって、音楽の喜びを目でも語りかけられればいいな、とは感じましたが、でも、たいしたもんです。

実際に演奏したブルノ・フィルは、二管編成でちょうど山形交響楽団と同じ規模です。さすがに、迫力のパイプ群を持つオルガンを正面に据えたホールは素晴らしい!何十年も演奏会に通いつづけているという老人が、思わず立ち上がりブラボーを叫ぶシーンは、なかなか感動的です。

いっぽう、のだめチャンのほうは、千秋と初共演と舞い上がり、チラシをまく場面の嬉しさ、晴れやかさがよくあらわれていた「第九」四楽章の場面が微笑ましい。また、コンセルバトワールの進級試験で弾いたモーツァルトのピアノソナタ第11番イ長調K.331、いわゆる「トルコ行進曲つき」の演奏が、なんとも魅力的・感動的でした。あとてパンフレットを見たら、実際のピアノ演奏はランラン(郎朗)だそうで、「なるほど!」です。しかし自由奔放な、いいモーツァルトですね~!

原作でもそうなのかどうか、このドラマの場合、千秋がぐぐっと前に出てくると、それに反比例してのだめチャンがどよ~んと落ち込むというパターンがあるようです。千秋のバッハの弾き振りの出来栄えと自分の遅々たる進歩の落差に、またまた「コンチェルトの共演」の夢が遠ざかり、落ち込みます。このシーンにチャイコフスキーの「悲愴」交響曲がかぶるのですから、ほんとに可哀想です。でもね~、オークレール先生が言うまでもなく、人真似ではない、のだめ自身の個性を花開かせるには、まだまだ勉強が必要なのですよ。
音楽院を巣立ち、アパートも引っ越して新天地に羽ばたく千秋とオーボエの黒木君。アニメおたくのフランクと、黒木君にボルシチを褒められて嬉しそうなターニャがいるとはいいながら、取り残されてしまうのだめ。さあ、どうなる~後編へ続く、という感じでしょうか。

しかし、透徹した視野を持ちながら、オークレール先生はあいかわらず穏やかな紳士で、いい味ですね~。とても音楽家には見えない竹中シュトレーゼマンは、どうやらベートーヴェン的悲劇の始まりなのかも。

(*1):「のだめカンタービレ」を観る(1)
(*2):「のだめカンタービレ」を観る(2)
コメント (6)