イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

200メートル先にある謎

2020年01月22日 | Weblog
数年前、ワカメ採りの準備をするために港の近くの竹やぶに入ったとき、崩れかけた鳥居をみつけた。



僕は生まれてから12年間この集落に住み、ここを離れてからもしょっちゅうこの付近を訪れているのだが、こんなところに鳥居があるなどとはまったく知らなかった。ここに鳥居があるということは、ここに神社でもあったのだろうかとひとつの謎が生まれた。
まあ、それを知ったからといってどうということはないのだが、それ以降竹やぶに入るたびに気になっていた。今年もワカメを採るための竹竿を切るために叔父さんの家の裏の竹やぶに入ろうとしらた、隣の家の裏のほうがまっすぐな竹があるぞと教えてくれた。隣のご主人に断りを入れて入らせてもらうと目の前にあの鳥居が現れた。



いつも港から入るので位置関係がわからなかったがこの鳥居は叔父さんの家の隣の裏のごく近くであったようだ。この集落は紀ノ川の砂州の上にできたようなところなので砂州の海側か川側かという位置関係にあったのだ。

あらためて疑問が湧きあがり、竹竿を切りだした後、隣の家を訪ね、ちょうど集まっていた僕の叔父さんを含めた70代の人たちにあの鳥居のことを聞いてみた。隣のおじさん曰く、昔からあるけど知らんな~。とのこと。
どうして鳥居だけが・・とますます疑問が湧いてきた。ぼくが以前から考えていたことは、ここ、水軒にも昔は漁師がいて、漁協もあった。隣の雑賀崎、田ノ浦、和歌浦にはエビス神社があるけれどもこの集落にはない。この集落にあるのは住吉神社だけなのだ。
と、いうことはこの鳥居はかつてこの集落にあったエビス神社の名残ではないとそのルーツを思い描いた。ただ、この説にもおかしなところがあって、もしエビス神社があって、この場所から移動させねばならないような事情がおこったとしたら近くの住吉神社に合祀されていてもおかしくない。しかしながらここにはエビス様は祀られていないのだ。

そんなことをSNSで呟いてみたら、「図書館で古い地図を見てみたらいいんじゃないの?」という書き込みをもらった。確かにその手がある!早速釣りに行けない風の強い日に図書館を訪ねてみた。カウンターで、昭和の初めころの和歌山市の地図ってありますか?と聞くとさすが図書館だ、2秒で出てきた。というのもこんな資料をほかに借りる人がいるのかどうか、カウンターの後ろの一時保管用の棚に和歌山市史が1冊置かれていてその付録として昭和17年の地図があった。
コピーを取らせてもらって家に帰りスキャンをしてグーグルアースの衛星写真と重ね合わせてみた。地図の縦横は養翠園のヘリとその近くの橋が重なるように調整をした。養翠園は江戸時代からあるからおそらくこの地形はそんなに変わっていないだろう。
それがこれだ。赤い丸が謎の鳥居がある場所。黄色い丸が住吉神社。住吉神社はしっかりと古い地図にも書き込まれている。



まずは海岸線が全く違うということに改めて驚く。もともとこの辺一帯は紀ノ川から続く白砂青松の遠浅の海岸が続いていたのだ。風光明媚な海岸として有名で、僕のおばあちゃんの自慢は、「みそらひばるが映画を撮りに来たことあるんよ~!」ということであった。どうもひばりとみはるを合体させてしまったようだ・・。
約50年前、ここを貯木場にするため海岸を埋め立て今のような姿になった。僕には砂浜の記憶はないのだけれども砂浜で遊ぶ姿を撮った写真が残っているので正確には52~53年前には埋め立てが始まったものと思われる。
その鳥居と住吉神社は両方とも海岸線のぎりぎりのところに建っていたようだ。そこからいろいろ想像を巡らせる。
住吉神社は東(陸の方)を向いている。また、鳥居のほうは海岸ぎりぎりにたっているというこことがわかる。ということは、人は海岸からこの鳥居をくぐったということは間違いがない。おじさんたちの話では、おそらく昭和30年代、海岸の埋め立てがされる前からこの鳥居の周りには特に建造物らしきものはなかった。それらを考え合わせると、あの鳥居は住吉神社の一の鳥居ということになるのではないだろうかというのが僕の結論だ。
住吉神もエビス神と同じく海上安全や豊漁祈願の神様だが、東の方を向いている神様に海から直接参ろうとすると神様の裏側にぶち当たる。神社の裏から入るわけにもいかないから少し離れたところに参道を作ったのではないかと僕は考えた。古い地図の海岸線の描写が正確なら謎の鳥居のある場所は少し凹んでいる。そこはきっと小さな船溜まりにもなっていたのかもしれない。最短距離ではないけれども、付近には道もついている。長い年月の間に道の位置もかわり迂回路のようになってしまったのかもしれない。

ちなみに、住吉神は3柱の神様が合体したという、現代にたとえるとゲッターロボのような神様なのだが、そのなかのひと柱の神様の本地は阿弥陀如来だそうだ。だから西方浄土の方向を向いて拝む位置に建立されたとも考えられるのではないだろうか。

そんなことをSNSに書き込むと、ひょっとしたら矢ノ宮神社の参道かもしれませんよという意見をいただいた。矢ノ宮神社も歴史が古くそのご祭神は八咫烏だ。雑賀孫市も戦勝祈願をしたというところで、昔から地元だけではなく、広く大阪、淡路方面からもお参りに来る人がいたとホームページには書かれていた。そういう人はおそらく海を越えてくるか海岸伝いにやってくるだろうからやはりここが海からの参道の玄関口になっていたのかもしれない。
この鳥居からほぼ真東の方向に矢ノ宮神社がある。八咫烏は神武天皇を導いた神様だからそれにちなんで東の方に進むように位置を定めたとも考えられる。

謎は完全に解明されてはいないけれどもどちらにしても海からの参道の一の鳥居という可能性が高いようだ。そしておそらくはこの場所、水軒堤防が位置する場所でもある。



水軒堤防というのは、水軒の浜に沿って紀州徳川家の祖である頼宣の時代に造られた石積みの防波堤で、何度かは造り直されたようだがその土木技術は当時の最先端を行っていたそうだ。それ以来水軒の集落と畑、徳川家の別邸である養翠園を台風の被害から守り続けていた。この工事を指揮していた人の俳号が“水軒”だったのでこの辺りを水軒と呼ぶようになったと港の近くの看板に書かれていた。この鳥居もその堤防の上に築かれていたのかもしれない。砂地の上だと石の鳥居なんてすぐに倒れてしまいそうだ。
石の堤防の上にポツンと佇む石の鳥居。きっとインスタ映えするスポットになっていたかもしれない。そのまま残しておいてくれたらと思うけれども、そんな環境であったら台風が来るたびに船をどこへ避難させようかと右往左往するはめになっているだろうからこれはこれで困るのだ・・。ただ、この想像も、水軒堤防は砂の堆積によって地面からはかなり深く埋もれてしまっていると聞くからこの鳥居の基部はどんな環境になっているかはまったくわからない。といいながらも古いアルバムから引っ張り出した写真には水軒堤防らしき風景が見える。52、3年前には堤防は露出していたのかもしれない。やっぱり堤防の上にポツンと佇んでいたのかもしれないのだ。



そしてなにより、数百年前からここには人が住み、僕と同じように神社に手を合わせた人たちがいて、その中のひとりは間違いなく僕につながる人であったと思うとなんだか崩れかけた鳥居にはもう一息頑張って立ち続けてほしいと思うのである。




コメント (2)
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