イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「ルリボシカミキリの青 福岡ハカセができるまで」読了

2020年01月21日 | 2020読書
福岡伸一 「ルリボシカミキリの青 福岡ハカセができるまで」読了

この本はドキュメンタリー「ボクの自学ノート」の主人公の愛読書ということで紹介されていた。
著者は僕もいままでいく冊か読んだことのある分子生物学者だ。週刊文春に連載されていたエッセイをまとめたものだから特に小中学生向けの読み物というわけではないが、ところどころに学者を目指した理由や子供時代の思い出が書かれているので確かに未来に希望を抱いている若者が読むにはよい本なのかもしれない。そして一節ごとが2ページ半という短さも読みやすい。
著者が生物が生物であるための定義のひとつとしている、「動的平衡」をキーワードに生物学はもちろん、絵画、文学、音楽さまざまなものについて語っている。あらゆる分野に精通している著者らしい語り口が心地よい。

科学者の本を読むといつも思うのだが、小さいころから並々ならない好奇心と行動力を持った人でないと科学者や研究者という人にはなれないんだとつくづく感じる。
これは科学者に限ったことではなく、サラリーマンの世界でも自分の業務に並々ならない好奇心と行動力がないことには出世ができない。寝ても覚めても仕事のことを考えるというようなことは僕にはついぞできなかった。それどころか、会社はできるだけ早く抜け出し通用口を出た瞬間から会社のことは何も考えないようにしていたのだからこれではダメだ。これはもう、仕事に誇りを持つかどうかという以前の問題だ。
それじゃあ仕事以外の何かならそれだけの好奇心と行動力を発揮できるかというと、仕事でさえもできないのだからほかのものでそれができるわけがない。
そういうことを思いながら読んでいるとなんだか少しばかり悲しくなってくるのである。

この本は生物学に関する話題がメインだが、たまに星の話も出てくる。2009年の日食の話題もあった。僕も見ることができなかったようで、恨み節みたいなものをこのブログに書いている
星というと、冬の星座のオリオン座で一番明るいベテルギウスが爆発寸前だそうだ。今はものすごく暗くなっていて普通なら周期的に明るくなってくるらしいのだけれどもその兆候が見えてこないらしい。
ベテルギウスの爆発というのはその大きさから超新星爆発になるということはわかっているそうだ。超新星の爆発は歴史に記録された肉眼での観測は中国で西暦393年、日本では西暦1054年藤原定家が「明月記」で記録をしていたらしい。いずれもかなり遠くの星であったが今回は640光年という近くで、半月くらいの明るさで日中でも見ることができるそうだ。寸前といっても100万年くらいの誤差があるそうだけれども、なんとか生きている間に見たいものだ。昼間に輝く星というのはどんなものだろうか。ぜひ夏の間に爆発してくれ。

このエッセイはまだ週刊文春で掲載が続いていて、今日、たまたま図書館で読んでみると今週号は釣りに関するエッセイであった。荘子からとった、「尾を塗中に曵かんとす」という箴言が紹介されていた。

莊子持竿不顧。曰、吾聞、楚有神龜、死已三千歳矣。王巾笥而藏之廟堂之上。此龜者寧其死爲留骨而貴乎、寧其生而曳尾於塗中乎。

ストーリーはこんな感じだそうだ。
『荘子(そうし)が濮水(ぼくすい)で釣りをしていた。
楚王(そおう)は高位の臣下二人を先に行かせ(王の意向を伝えさせ)た。
「どうか国境の内側(=楚の国内のこと)を(あなたに)お任せしたい。」
荘子は竿(さお)を持ったまま、振り返りもせずこう言った。
「わしの聞くところでは、楚に(吉凶を占う)神聖な亀(の甲)があって、(その亀は)死んでから三千年たっている。
楚王は布で包んで箱に入れ、祖先の霊を祭ってある堂の上に大切にしまってあるという。
この亀としては、死んで甲羅を残して貴ばれるのを願ったであろうか、それとも生きて泥の中で尾を引きずって動き回ることを願ったであろうか。」
二大夫は言った。
「それは、やはり生きて泥の中で尾を引きずって動き回ることを願ったことでしょう。」
荘子は言った。
「帰るがいい。
わしも泥の中で尾を引きずって動き回ることにしよう。」 』

確かにそれは理想というか、男の生きざまとしてはカッコいい。
鴨長明といい津軽采女といい、能力があっても報われない人たちというのはたくさんいたようだが、その中でも荘子ははなからそれを望んだというのがカッコいい。

しかし、荘子が言うとさまになるけれども、はなから無能で先が見えてしまったサラリーマンが言うとごまめの歯ぎしりにしか聞こえないのだ・・。
コメント
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