イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「ほろ酔いばなし 酒の日本文化史」読了

2019年12月20日 | 2019読書
横田弘幸 「ほろ酔いばなし 酒の日本文化史」読了

日本酒にまつわる文献や言い伝えをエッセイ風にまとめたものだが、なかなかいろいろなものが盛りだくさんである。古事記の時代から現代の日本酒事情までよくぞこれだけ調べられるものだと思う。

酒は百薬の長として、1日に摂取するアルコールは20グラムが健康を保つには最適でまったく飲まないよりも飲んだ方がいいというのが今までの定説だったそうだが、最近の論文では飲まないに越したことはないそうだ。
今年の5月に血圧が高いと言われ、これではお酒が飲めなくなるのではないかと温存している高価なお酒(と言ってもワインは1500円、日本酒は2000円までなのであるが・・)から飲んでおこうみたいなことを考えているけれどももうここまで来たら別にあとはどうなっても構わないだろうとも思ったりもするので、僕はきっと医者から止められてもこそこそ飲んでいるのだと思う。
葛西 善蔵と言う作家は、「酒は美味しくていいものだ。実に美味しくて毒の中では一番いいものだ。」と言ったそうだ。まさしくそのとおりだ。

お酒を飲んで衣服が乱れるほどどんちゃん騒ぎをするのは日本だけだそうだ。もともとアジア人種だけが酒に弱いというところもあるのだろうが、ヨーロッパではまずそういうことがないそうだ。そういえば、昔BSでやっていた、「世界入りにくい居酒屋」と言う番組でも、ヨーロッパの国ではどれだけ酔っている人でも相手に酒を押し付けているシーンは出てこなかった(飲まないなんて残念だというようなことを言う人はいたけれども。)。

「無礼講」などというくだらないものを始めた人は後醍醐天皇だったそうだ。隠岐の島に流されたあと、再度北条家が牛耳る鎌倉幕府打倒を画策したとき、臣下の腹の内を探ろうと身分の上下なく自由に何でも話せる場を設けたということだが、要は裏切り者は誰かを知りたかっただけのことであった。何かしゃべらせようと無理やり飲ませる習慣がここから始まりそれが延々と続いているのが会社でやってる宴会ということになるのだろうか。腹の探り合いをしながら飲むお酒の味なんて想像するだけでお酒に申し訳ない。逆に、二宮金次郎は献酬を禁じたそうだ。人によって飲める量はまちまちだ。人から注がれるより自分で適量を飲んだ方がお酒は美味しくいただける。まったくそのとおりで、おまけに仕事の話をしながら飲むお酒なんてどう考えても美味しくない。

こんなにたくさんのお酒にまつわる本を読んでおきながら僕は相当お酒には弱い。和歌山県では下戸の割合が約50.3%で全国では43位であるという統計があるそうだが、悲しいかな僕はその半分の確率に入ってしまっているので宴会の席で人から注がれるのが迷惑なのだ。そしてそう思っているから人に注ぐことをあまりやらない。そうなってくるとこういう場合は孤立状態ということになってしまうのでよけいに困ってしまうのである。
ちなみに上戸、下戸というのは律令制の時代の家が大きいかそうでないかの違いを表す言葉であったそうだ。男子がたくさんいて収入が多い家は上戸、逆が下戸。お酒をあんまりたくさん買えないから下戸となる。
宴会のテーブルにはたくさんのビール瓶が並ぶけれどもビールはお腹がすぐに膨れるからあんまり飲みたくない。人と飲むなら趣向が同じで尊敬できる人と飲みたい。あこがれは「竹林の七賢」だ。血圧を意識し始めてからはなおさらだ。
しかし、この血圧が高いので経過を見ているというのはいい口実になる。
家で毎日、コップに一杯分のお酒をちびちび飲んでいるというのが一番なのである。

今のように澄んだ品質のよい日本酒が造られ始めたのは室町時代のころからだそうだ。「諸白」と言い、麹も酒米もすべて白米を使うようになってからだそうだ。これは米の生産量が増え、お酒造りに回せる米が増えてきたからという理由なのだが、せっかくいいお酒が造れるようになったのに、当時は「飲み比べ」というような、味わうという趣向のまったくない飲み方も流行したそうだが、以来、その飲み方については500年以上まったく変わっていないというのがこの国のお酒の飲み方のようだ。戦後は三倍増醸清酒というような粗悪品が生まれたのもこういう、味わいとか趣というようなことをともすればないがしろにするという国民性は昔から変わっていないような気がするのだ。
流されたくないものだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする