イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

洲本沖~加太沖釣行

2019年12月09日 | 2019釣り
場所:洲本沖~加太沖釣行
条件:中潮 4:44満潮 10:18干潮
潮流:5:09上り2.7ノット最強 8:55転流 11:35下り2.1ノット最強
釣果:サバ 1匹 ハマチ2匹

久々の加太への釣行だ約3週間ぶりになる。そして今日の気圧配置は風が吹かないことを示している。冷凍したまま眠っているイワシを持って洲本まで遠征をしてみた。今シーズン最後のタチウオだ。そして今シーズン初の洲本沖である。ナカトを難なく突破して水深100メートルのポイントへ。

 

今日は波が穏やかだ。潮も転流に向かっているので底を取るのも楽なのだが、まったくアタリがない。タチウオは最初にアタリがないと不安になる。少しづつ場所を変えながら仕掛けを下すがアタらない。下りの潮で真鯛を狙いたいとも考えているのでここは午前9時までと決めていた。しかしまったくアタリがないけれどもひょっとしたら潮が動き始めると釣れるのではないかとどんどん増えてくる釣り船を見ながら考え、もう少し粘ることに。



そんなときにアタリ。かなり引く。これはドラゴンかもしれない。ああ、やっぱりこれから釣れるんだと喜んだけれども途中からえらく走り始めた。引き上げてみると大きなサバが枝鉤に食いついている。あれまあ、タチウオじゃないのか・・、こんなものにサバが食ってくるのか・・、美味しい獲物じゃないか!!と複雑な気持ちで生け簀に放り込む。

潮は動き始める時刻だがどうもあんまり流れていないようだ。長いテッポウを引いている漁師も、ここに到着したときはかなりタチウオを揚げていたがこの時間にはまったく釣れなくなっていた。



じゃあ、ここで粘っても無理だろうと真鯛狙いに移動。本当は非武装ポイントに行きたいのだが、このポイントからだとコイヅキのほうが近い。きずしのネタができたので少し気持ちに余裕がある。ダメ元でラピュタポイントから攻めてみたがここも全然ダメだ。おまけに潮が早くなってきて油断をすると根掛かりをおこしてしまう。コイヅキはいつも帝国軍が占拠しているからあまり行きたくないのだが背に腹は代えられない。帝国軍がいたら退散、終了と決めて向かうともぬけの殻だ。早速仕掛けを下すとしばらくしてアタリがあった。この感じだと真鯛であったがあえなくバラし。そのあとまたアタリ。今度はハリスを食いちぎられた。サバフグかもしれない。そしてまたアタリ。正午から30分ほどの間だった。
潮はまだまだ早いはずだがまったく動いていない。場所によっては上っている。叔父さんの家へ放り込む分も確保できたので午後1時に終了。

ハマチ1匹で野菜を山のようにもらってきた。冬の野菜も最盛期のようだ。




夕方のニュースを見ていると、今朝の最低気温は摂氏3度。確かに寒かった。12月下旬並みだったそうだ。完全冬装備で出かけたが最高気温は摂氏15度で11月中旬並みだったようで今度は暑すぎだ。帰りの道中の海面を見ていても本格的な冬まではもう少し余裕がありそうだ。

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「裏山の奇人: 野にたゆたう博物学」読了

2019年12月08日 | 2019読書
小松貴 「裏山の奇人: 野にたゆたう博物学」読了

著者は、以前に読んだ、「絶滅危惧の地味な虫たち」の著者である。“好蟻性昆虫”を研究する学者なのだが、その研究フィールドが在学していた長野大学からほんのわずかな距離の雑木林が中心であったそうだ。“好蟻性昆虫”とは、その名のとおり、蟻と様々な関係をもって暮らしている昆虫である。蟻の巣に住み着いて食べ物をもらったり、巣の周りをうろついて蟻の食べ残しをあさるコオロギ、シロアリをハントするカゲロウ。卵を産み付けて蟻を生きたエサにする蜂。そんな昆虫を研究している。
そんな不思議な生き物を奇人と称し、そんな地味な虫を研究する自分自身も奇人であると書いている。
子供の頃から昆虫の観察が好きでその時間が欲しいため学校は授業が終わるとすぐに帰宅し友人との交流する時間を惜しんで観察にいそしんだそうだ。その興味をそのまま大学まで持っていき研究者となった。
自らを「人ぎらい」、「中二病」だと書き、出張中に貴重な昆虫の飼育を頼める人がいないから新幹線に乗せて一緒に出張先まで持って行ったというエピソードも載せている。
しかし、その研究の中では得難い研究者や上司出会いがあったということではどうも「人ぎらい」というのでもなさそうだ。自分の興味のある分野についてはとことん行ってしまうという、そんなひとなのだろう。

この本を読んでいる途中に、「ボクの自学ノート」というドキュメンタリーを放送していた。北九州の高校生が小学校の時の課題として始めた自習ノートを卒業してからも中学卒業まで続けたという話だ。小学校の時は先生が読んでくれたが卒業すると読んでくれる人がいない。それではと周辺の図書館や博物館の司書や学芸員にむりやり読んでもらいながら交流を続けたという内容だった。一見変わった中学生で、しかし見ようによってはひとつのことに集中できるすごい才能がある子供であると見ることができる。
ドキュメンタリーでは、こういう生徒の評価を下げるのではなく、個々の才能を伸ばす必要性みたいなものを強調していた。
彼も著者と同じく、人づきあいは苦手なようで、学校は行くだけで、放課後になるとさっさと家に帰り、自分の興味のあることに熱中する。その間に学校では自分の知らない同級生間の交流ができていて浮いた存在になったしまったというようなエピソードが盛り込まれていた。

人ぎらいでもひとつの才能に振り切れたらそれはそれでよい。そこでまた人との交流が生まれ一見社会に対してなんの役にも立っていなさそうでもどこかで貢献していて生活の糧を得ることができるし世間も承認してくれる。
僕が子供のころも家の周りは舗装している道路が少なく、道端にはアリの行列がいっぱいいた。しかしそれを眺めるだけで巣の中はどうなっているのかとかその中に共存している虫がいることなどついぞ知ろうともしなかった。あそこの穴の中にもコオロギが潜んでいたのだろうか。ちなみコオロギを漢字で書くと「蟋蟀」と書くそうだ。
しかし、中途半端はいけない。この人たちと僕の共通点は、“学校が好きではなかった。”ということだが、それが就職すると、“会社が好きではない”となる・・。仕事はやらねばならないことはやるけれどもそれ以上のいわゆる、「パーソナルコミュニケーション」というものにはからっきし興味がない。確かに浮いた存在になってしまっているのだろうが、これといった才能がないからただ浮いてしまっているだけだ。
もっと、これだ!!という才能があって何かの研究者にでもなれていればもっと別の人生があったのではないだろうかと思っても今となってはあとの祭りだ。それをなんとかひた隠しにしてサラリーマンをやり遂げるしかない。まあ、ひょっとしたら、仮面をかぶってサラリーマンをやり遂げるというのもひとつの才能であったりするのかしらと肯定的に思わなければやりきれない。

著者は自分になぞらえて南方熊楠の生涯を紹介している。ここで残念なことが・・。熊楠は金物屋の貧しい家庭に生まれたとなっているけれども、造り酒屋の大金持ちの次男坊として生まれたのが正解だ。著者としてはやはり貧しい家庭で育ち、世間からは注目されなかったが晩年、もしくは没後に新たな評価を受けたのだと思いたいのだろうけれども、せっかく科学についての著作なのだからそこのところはちゃんと調べてほしかったのだ。

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「アリエリー教授の「行動経済学」入門-お金篇」読了

2019年12月02日 | 2019釣り
ダン アリエリー ジェフ クライスラー 「アリエリー教授の「行動経済学」入門-お金篇」読了

日本のGDPの6割は個人消費で占められているそうだけれども、その6割の部分は合理的な経済行動がおこなわれていないというお話だ。
ケインズ経済学の一番の根本は、市場での価格決定は需要と供給のバランスが取れたところで決まる。これを「神の見えざる手」と学校で習ったことがあるけれどもそんな自然の摂理では決して人は動いていない。もっと別の、この本では総称して「心の会計」と呼んでいるけれども、そんな心の愚かな動きによって、またそれを利用した売り手の巧みな作戦によって高いもの、買わなくてもいいものを買わされているというのだ。


この本を読んでいると僕もかなり惑わされているということを思い知ることになった。

いくつかのキーワードが出てくるけれども、そのすべては「機会費用」というものに起因する。すべてのモノの価値はお金で換算することができるけれども、どんなにお金を持っている人でも無限に持っているわけではない。これにお金を使ったらほかのものは買えなくなる。
だからどんな人でも心の中で、「どれを買ったら一番満足できるか」ということを問い続けることになるのであるが、どうもそれが合理的ではない。心の中のよくわからない機微が無駄な出費を誘うのである。

この本に照らし合わせながら自分の消費生活を振り替えると実に情けない。
ついこの前も、岩塩を安く売っている店を見つけて大量に買ってきたら奥さんから、「死ぬまでに食べきられへんで。」と嫌味を言われ、魚が釣れなくて早々に切り上げ、仕方なく寄ったスーパーで昨日売れ残ったコロッケが2割引きだったとちょっと得したとほくそ笑んでいる。
そんなにせこい喜びにしか生きがいを感じることができないと思うと、100円で買ったヌカを腐らせるのがもったいないと往復4,000円の高速代と追加のエサ代1,500円を払っている。
車を買うときは気持ちが大きくなってそんなに乗らないのにオイル交換付のメンテナンスパックみたいなものをオプションで買ってしまった。
ネットでも使う用途のないナイフを衝動買いし、中古の釣具屋でも使うあてのない釣竿を買ってしまう。

岩塩や2割引きのコロッケを買ってしまうのは通常価格に対して「相対的」な安さに惑わされるからだ。コロッケは確かに2割引きだが、岩塩のほうはバルクで買ったけれども本当に安かったのかどうかはわからない。
必要もないオプションを買ってしまうのも車の価格に対して「相対的」にオプションが安く見えてしまうからだ。
100円のヌカを惜しむのは「損失回避の法則」と呼ばれる。100円のものを失う痛みは100円の利益の喜びの2倍の強さで感じられる。
ネットショップで必要もないものをポチっと買ってしまうのはそこに出費の痛みを伴わないからだ。旅行はパックで先払いしておいた方がその都度アラカルトで支払うよりも楽しさは増すらしい。

ブランド物のバッグを途方もない値段でありがたく買ってしまうのは「言葉と儀式の威力」に惑わされるからだ。ブランドが持っている歴史やデザイナーにまつわるストーリーがモノの値段を数十倍にはね上げる。こういうことについては僕はそういう業界で働いているのであまり惑わされない自信はある。はず・・。
レストランで、“OOサラダの小悪魔風△□を添えて”なんていうメニューも言葉と儀式の威力を利用しているのだ。

しかし、こうやって見てみるとムダに使っているお金さえもセコい。
大きなロゴのプリントされたバッグに筋肉を鍛えるためにはめているのかと思えるような大きな腕時計をしているひとが成功者なら僕はまったくの落伍者だ。
僕は100円の買い物をする時でさえひとしきり悩む。アマゾンのクリックも何週間も買い物カゴの中身を温存してやっとポチッとする。そしてその挙句に、やっぱりよしておけばよかったと悩むのだ。
そんなことなら、(ここからはあくまでも僕の友人から聞いた話だが・・。)「去年まではあそこに展示していたおせちはひとつしかなかった。ことしはいっぱい並んでいるからどれを選べばいいかわからないじゃないの!!」と苦情をいうおばさんみたいに人から言われるがままに買い物をして満足している方がよほどいいのではないかと話のかみ合わないそのおばさんの文句を聞きながらそう思うのである。

そしてこの本にはそういうことを回避するための対策というものも書かれているのだが、もうこの歳になってはそんな性向を変えることはできるはずもなく、これからも迷いながら悔いながら小銭をまき散らし続けるしかないのだ。
また、貯蓄率の低いアメリカで出版された本らしく、貯金に対しても言及している。将来に向けてこれまでに書かれていた事柄に惑わされないように工夫して貯蓄をしなさいということだがそれに対してはこう言ってあげよう。一番の秘訣は、自分よりももっとしぶちんな僕の奥さんみたいな人に給料を全部渡してしまえばいいのです。

この本は「行動経済学」というものをベースに書かれているけれども、「経済学」というよりも心理学に近いような気がする。しかし、トンデモ学問のような類でもなくこれでノーベル賞を取ったひともいるそうだ。また、機会があれば読んでみよう。

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