イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「いつか出会った郷土の味」読了

2021年12月08日 | 2021読書
夢枕獏 「いつか出会った郷土の味」読了

ここ数日読んでいる本はイラストや写真がたくさん載っていて読むのに時間がかからない。通勤電車1往復半で1冊のペースだ。
この本も、ひとつの章が4ページほどだが、1ページは丸々イラストで埋まっているし、ページのデザインが余白を多く取っている形なので1章あたり5分ほどで読めてしまう。

「男の隠れ家」という雑誌に連載されていたものをまとめたものということだ。
著者が日本の各地で食べ歩いた思い出の、それもとびきり美味しかった料理や食材を収録している。「いつか出会った・・」と書かれているくらいで、文章の中には30年前とか、20年前、10年前というような表現がたくさん見られる。

釣りのため、取材のためとはいえ、ほとんど日本全国というほど巡っているのには驚くし、それも1回だけではなく何度も同じところに足を運んでいるところもある。当然ながら不味かったものや取るに足らないものも食べているだろうから、どれだけの距離を移動していたのかと思う。夢獏良は多作で有名と聞いたことがあるが、それに加えて普通の作家以上に原稿を書く仕事までこなしているというのだから、人気作家の体力というのは凄まじいと思う。
取り上げられている食材にはお肉がない。釣りが趣味の人だからということもあるのだろうが、魚や山菜、野菜、果物などばかりだ。そういった編集にはうれしさを覚える。まあ僕も歳なのでお肉よりもそういった食材に美味しさを求めているのかもしれないが・・。

1年365日、奥さんの作った弁当と奥さんの作った食事しか食べていないのでそうなってくると、家の外で食べるものにそれほど憧れや欲望を抱かなくなる。もともと旅行が好きというわけでもなく、掲載されている料理や食材を食べに行けるわけでなく、この本を読んでもそんなに想像力をかきたてられることがない。
本の紹介コピーには、「下品に、はしたなく、エロティックに書き下ろす。」と書いているが、けっして作家の技量が悪くてそのエロティックさが伝わってこないのではない。師の言葉では、エロいシーンと食べるシーンを感動的に書ける作家は一流だとは書いていたが・・。
僕にそういうことが伝わって来ないのは、単に家で食べることに慣れてしまっているということにほかならないのである。
お金もないし、この歳からいきなり食べ歩きが趣味ですとなることもない。しかし、ときたまこんな本を読んでそこへ行った気になっておこうとは思うのである。


「生きることは食べること」というのはちょっと前の朝の連ドラのコピーであったが本当にそう思う。夢枕獏ほどではないにしても、僕も食べることは好きだ。お金をかけるということはまったくないけれども季節ごとの食べ物を食べてきたと思う。スーパーに売っているものを買ってくるのではなく、自分で食材を取り自分で調理をするということに、本当の「生きることは食べること」という意味があるのだろうと勝手に思っている。出来合いの総菜をスーパーで買ってくるというのはどうも性に合わない。
食べることに興味のある人、無頓着な人、いろいろいるだろうが、統計的にはどうかは知らないけれども僕の感覚では食べることに無頓着な人というのはあまり健康な生き方をしていないのではないかと思ったりする。
これは僕の家の向かいに住んでいる老夫婦の話であるが、旦那さんは数年前に脳梗塞を患って体の自由が利かなくなってしまった。ひとりで歩くことはできていたようでよちよち歩きで散歩する姿もあったが、最近では奥さんの介添えなしでは歩けなくなっていた。それがひと月ほど前だろうか、奥さんが家にやってきて旦那さんがベッドから落ちて動けなくなったので手伝ってほしいと言ってきた。そんなことは当然と手伝ってベッドに戻してあげたが、2、3日して僕が留守の時にもトイレで動けなくなったから手伝ってほしいと言ってきたらしい。奥さんが駆けつけてベッドに戻したそうだ。
この家庭には独身の娘が二人もいるので普通なら自分たちで手厚い介護ができるはずなのだと思うが、ひとりは一緒に住むことができないと家を出ていてひとりは介護疲れか心を病んで入院してしまったらしい。
そんなことがあって、食べることと健康な生き方についてあらためて思うのが、この人たちは食べることに対して大したこだわりがなく生きてきたのではないかということだ。僕たちがこの場所に引っ越して来た時からのご近所付き合いで、それ以来の何気ない会話の中でも季節を感じる食生活をしているような人たちではないのだという印象を持った。
うちも会話のない家族だが、食べ物を真ん中に置いた会話だけはある。年中同じメニューならうちにもそんな会話さえなかったであろう。美味しい食べ物があると思うと家を出ることもなかったのではなかったのだろうか。と言いながらうちもとうの昔に出ていってしまったが・・。

もちろん、食べることが好きな人が脳梗塞を起こさないということはないと思う。僕はガンで死ぬより今のままでは早晩心筋梗塞を起こす確率のほうが高いはずだ。しかし、あとひと月したらこんなものが食べられる、次の食材確保にいまから準備をせねばと思うことは心筋梗塞の発作を起こす時期を少しは遅らせることできるのではないかと思うのだ。

そして、先週の土曜日、朝5時に家の呼び鈴が鳴った。最初は夢うつつであったが、2回目の呼び鈴と扉を叩く音で完全に目が覚めた。その主は向かいのおばさんであった。またトイレで倒れたまま動けなくなったというのだ。
その後もうちの奥さんに、医者まで行きたいんだけどいつも頼むタクシーの運転手が忙しいらしいと、さもお宅の車で連れて行ってくれと言わんばかりだったようだ。どうも完全にこっちの全面的に頼ろうという姿勢に変わってきている感じがする。タクシーの一件も、少し前に近くの内科に奥さんが連れて行ったことがあったらしい。ご近所付き合いといっても古くから残っているのはこの2軒だけであとは新参の人たちだから気軽に声をかけることができないというのはよくわかる。それも困るのであるが僕だって同じだ。

医学の進歩は人の寿命を延ばしたのだろうけれども、それは単に死ななくしたということだけではないだろうか。そこには人のこころを置き去りにして科学の進歩だけが残っているような気がする。そして、本来、共同生活ということを前提としてきた人類の進化を、お金と引き換えのサービスにとって換えてしまった社会が目の前にある。
だから、前回のブログに書いたNさんのことも考えると、なんとか健康に、ひとに頼ることなく生きているということが奇跡ではないのかと思えてきたのである。

義理の父も奥さんを亡くして早や6年、2、3年前から宅配弁当のお世話になっている。そんな話を聞くとこれでいいんだろうかと思い、釣ってきた魚をたまには持って行ってあげようよと奥さんに話をしてみるのだが、そんなことしなくていいという。遠慮をしているというのもあるだろうが、ああ、この人も年中同じ食事でもなんとも思わない人なのだろうなと思うと、自分の自由が利かなくなったとき、急速に寿命を縮めるのだろうと思うのである。

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