イレグイ号クロニクル Ⅱ

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 「戦争と経済  舞台裏から読み解く戦いの歴史」読了

2024年07月04日 | 2024読書
小野圭司 「戦争と経済  舞台裏から読み解く戦いの歴史」読了

戦争は武器を持って戦うだけではない。それは一番目立つ部分で人間の勇猛さや獰猛さを誇示する一番の場面であるがその武器を準備するにはお金が必要で兵隊たちも食べないと空腹では戦えない。戦争の雌雄を決するのはお金であったともいえる。
そのお金の面から戦争を眺めてみるというのがこの本の趣旨である。

世界の歴史が始まってから間もなく勃発した戦争から第二次世界大戦、中東戦争、ロシアのウクライナ侵攻まで、様々なエピソードで戦時のお金の流れを解説している。
お金は戦争のためだけに使われるのではない。戦時でも当事国の国民全員が武器を持って戦っているわけではない。後方では普通の生活も営まれている。そこにもお金は必要だし、戦後処理の賠償のためにも必要である。
あまりにもたくさんのエピソードが満載なので戦費の調達、戦後処理に分けてそれぞれの場面で活躍した銀行の役割を、さらにそれを日本、ヨーロッパの戦争ごとにバラバラになってしまうが書き留めておこうと思う。

まず、戦費の調達についてであるが、その手段には、主に増税と国債発行がある。増税は平時・戦時を問わず国民の反発が強い。それに比べると、手元に残る国債発行は、国民の抵抗は小さくて済む。国債は国民(家計)が購入するので戦時のように国債を大量発行する場合には国民に資金的な余裕がある状態が政府としては望ましい。このため消費を抑制して国民が国債購入用の資金を残すように「公私生活を刷新」しようと試みる。要は、「贅沢は敵だ」というのである。そこで余ったお金で国債を買いなさいと勧めるのである。

日本では戦費に対する兵員関係の支出比率は、19世紀や20世紀初頭の西南戦争・日清戦争・日露戦争では50%程度だったものが、第一次世界大戦、・シベリア出兵で35%、日華事変・太平洋戦争になると22%まで低下した。これに対して、装備調達・維持修理はそれぞれ10%~20%、24%、46%と時代が下るにつれて増えていった。これは、武器の性能が高くなるにつれて兵隊を養う費用よりも武器を買う費用のほうが高くなっていったということを示している。

銃後の世界はどうであったか。第二次世界大戦での各国の民間消費支出は、1940年を100としたとき、終戦までアメリカは最低でもわずかに2%程度しか落ち込まなかったのに対して、日本では28%の下落となっている。意外と落ち込みは少ないと思うが、日本はすでに1937年から中国との戦争に突入していたのでその時点から比較すると、40%まで落ち込んでいる。これでは普通の生活はままならず、摂取カロリーは1945年には1日1793キロカロリーまで落ち込んでいる。日本人の1日の接種基準カロリーは2400キロカロリーだから75%しか取れていない。まあ、これだけ見ても日本が負けるのは必然であったと言えるのだろう。

武器の生産はGDPとして加算されるかどうかという問題がある。GDPというのは、「一定期間内に国内で産出された付加価値の総額」という意味であるが、武器は付加価値を生むのか、生むとしたらどんな付加価値なのかという問題である。
防衛装備品は「国防というサービスを生む」投資とされたのは国際基準上では2009年のことであった。それまでは武器というのは「付加価値」を生まないものと考えられていたのでGDPには加算されていなかった。日本では2016年に導入されるようになった。サービスと言われればそうなのかもしれないがあまりサービスはしてもらいたくはない・・。

戦争を景気回復に利用した学者もいた。ケインズである。ケインズ政策では、不況時に財政支出や低金利制で経済を刺激して景気回復を目論むが、財政支出が公共投資であっても軍備増強に向けられても有効需要が増えることには変わりはないと説いた。「軍事ケインズ主義」という。
しかし、軍備とインフラ整備は民間企業の生産コスト引き下げにつながるか、そうではないかという違いがある。しかし、第二次世界大戦勃発後ではそれが成功した。世界恐慌前に旺盛な投資が過剰設備の状態を作っていたアメリカでは、とにかく需要を増やせば完全雇用を達成し景気が浮揚し、それは国防支出でも効果は変わらないとケインズは考えたのである。実際その通りになり、第二次世界大戦が勃発した1939年に17.2%あった失業率は1943年には1.9%と急速に改善した。その間の国防費は16倍に増えた。
しかし、今の日本で同じことをやったらどうなるだろう。国債と地方債を合わせるとすでに1200兆円、さらなる国債の増発は債権の金利の増加を招き国は自分の首を自分で締めることになるだろう。おカネの面からも日本は戦争をしてはいけないというか、できない国になっている。それはそれで安心なのだが・・。

財政面ではどうであったか。日本では大規模な戦争が始まるとそれに関わる収入と支出を一般会計から独立させる会計処理をしてきた。「臨時軍事特別会計」という。原型となったのは西南戦争であった。それまでの内乱では一般会計に対する比率は1%程度であったものが40%近くに跳ね上がった。あまりにも金額が大きいので西南戦争に関する収支を一般会計から分離させ、「別途会計」として管理することとなった。
日本の戦争というのは何でも無計画に無茶苦茶やっていたというイメージがあるが、「臨時軍事特別会計」という管理手法というのはかなり進んだ考え方であったそうで、日本以外ではこういう例は見当たらないらしい。特定の戦争に関わる偶発てきな経費を、支出だけでなく、収入も「戦費専用」として経常目的の収入と区別するのは、財政規律を維持するうえでは重要であったそうだ。
東日本大震災の時にも「東日本大震災復興特別会計」が設置され、復興関係の歳入、歳出が一般会計から分離された。地震というのもやっぱり有事といえば有事なのである。

中性の頃、戦争が起きた場合、増税のほかに政府が頼るのは「借入れ」だった。100年戦争(1339~1453年)では、フランスの富豪ジャック・クールがフランス王シャルル7世の戦費を用立てた。
そのほか、戦費を賄った富豪には、フッガー家、普仏戦争の賠償金支払いのためのフランス公債を引き受けたロスチャイルド家などだ。ロスチャイルド家というのはユダヤ系の金融資本家である。

戦争の規模が大きくなると、戦費を賄うのに豪商からの借り入れでは足りなくなる。新たな資金源が必要なのであるが、それが戦時国債である。イングランドを例にとると、初めて戦時国債が発行されたのは1693年、ファルツ継承戦争(1688~97年)であった。イングランドではスペイン継承戦争(1701年~14年)でも国債を発行し、戦費の3割を国債で調達した。
戦費調達の国債依存は18世紀後半になると圧倒的に高くなり、オーストリア継承戦争(1740~48年)やクリミア戦争(1853~56年)では約半分、第二次ボーア戦争(1899~1902年)では約3分の2まで占めるようになった。
ちなみにクリミア戦争後に財政が逼迫したロシアは1867年3月にアラスカを米国に720万ドルで売却している。この額というのは当時の米国の歳入の2%程度という格安な買い物であった。
こういった国債依存は、産業革命を経て国民所得が増えたこと、債券市場が整備されたことが大きく関わっている。
日本ではどうだったかというと、日清戦争では臨時軍事費特別会計の52%が、日露戦争では82%が国債で賄われた。
ところが、日華事変ではその依存度は62%まで下がっている。それに替わったのは、「現地通貨借入金」というもので、海外領で樹立された日系政権の中央銀行が発行した現地通貨を、政府が特殊銀行などから借り入れたものである。借入れ先の特殊銀行は戦後にGHQによって閉鎖されて返す相手がいなくなって返済ができなくなったので今でも臨時軍事費借入金残高として414億2196万1575円も残っているそうである。

金融市場の発達で近代では大規模戦争の戦費調達は国債発行に依存したが、戦後の賠償菌も国際頼みだった。
フランスは、ワーテルローの戦い(1815年)でナポレオンの百日天下の賠償金7億フランと、連合国に対する損害賠償と占領経費などで16億5000万~19億5000万フランの支払いが発生したが、その9割は国債発行で賄われた。普仏戦争(1870年~71年)でも50億フランの賠償金を支払った。
日清戦争では清国の賠償金は2億3150万両(邦貨で3億5598万円)を外債発行で調達した。英仏独露の銀行がシンジケート団を組んで引き受けたのだが、日本はこれを原資に日露戦争を戦った。清国に貸した金でロシアは負けたということになる。

第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約に基づいて決定された賠償金は1320億金マルク(「金マルク」というのは大戦前の金本位制下のマルクであり、インフレによる目減りがしない)であった。あまりにも高額だったので米国主導で減額されたうえ年賦返済することになったものの、1933年に成立したナチス政権が支払いを拒否する。第二次世界大戦後、連合国と西ドイツは1953年に「ロンドン債務協定」を締結し戦後債務の元金を55%に圧縮して西ドイツが継承した。ドイツ統一後には1945年~52年の未払利子も再開され、返済が完了したのは2010年10月3日のことであった。

太平洋戦争後の日本はどうだったか、軍隊は通常、占領地での支払いには軍票というものを使用する。これは、占領軍の信用で流通する代用通貨で、占領が終わると本来の通貨と交換されるものだ。日本も占領する側になったときには軍票を使ったが、経済政策の主導権をある程度は握っておきたかった日本は占領軍が軍票を使うことに強く反対した。戦争での日本軍の抵抗が頑強だったことに恐れた米軍は結局、日本円を使うことになった。日本兵の命を懸けた抵抗もここでは無駄ではなかったということだ。
昭和20年度は日銀が占領軍に対して必要額を立て替え払いした後政府が返済するという形を取ったが昭和21年度からは「終戦処理費」として予算化された。占領軍が使用する兵舎・住宅の建築費や使用人、通訳、運転手など日本人雇用者の給与に当てられた。今では「思いやり予算」といわれるものと同じ用途のものである。昭和21年度では一般会計支出の32%に上った。その後も、1952年までのインフレを勘案しない単純平均で一般会計の約14%を占めていた。
これも、朝鮮戦争勃発や対日講和交渉が進んだことで占領費は日米折半ということになった。
講和条約定締結までの進駐軍による占領は、国際法上は戦争状態が続いているということになる。このため、それまでに日本が負担した占領費用は賠償金の先払いに該当したので「サンフランシスコ平和条約」では連合国の賠償請求自体が放棄された。

戦時の資金調達法には増税、借入れ、債券発行のほかに、古典的な戦費調達には通貨の増発や改鋳というものがある。しかし、当たり前だがインフレを引き起こす。同じようなことは時代が下ってもおこなわれたが、その時には兌換停止や平価引き下げという手法が取られた。
また、偽札も横行する。しかし、これは戦費調達というよりも敵国の経済混乱が目的であった。カリオストロ侯爵のような人間は本当にいたのである。

このような時代、銀行はどんな活躍していたか。
ひとつの働きは現金送金だ。本国で集めた戦費を仰々しく現金輸送を仕立てると掠奪のなってしまう。そのために為替を使うのだが、その決済の役目を担ったのが銀行である。
国債の引き受けも銀行が担った。日本で戦費調達を目的に国債が発行されたのは日清戦争が初めてであった。国債発行による戦費調達額は1億1681万円。国債発行のうち850万円は日銀応募、2500万円は郵便貯金が主な原資である預金部が引き受け、410万円は従軍兵に対する一時賜金という慰労金、残りの7831万円が民間から吸収した国債の額である。明治27年(1894年)の一般会計歳出は7813万円だったので相当な額であった。
当時の第一国立銀行、第三国立銀行、第十五国立銀行が国債消化の支援のために集められた。第一国立銀行の頭取は渋沢栄一、この銀行は第一勧銀となり、第三国立銀行は安田銀行、富士銀行を経て合併、2002年にみずほ銀行となった。第十五国立銀行は現在の三井住友銀行である。
戦後処理でも銀行が活躍する。ルイ14世は生涯を通して戦争に明け暮れた皇帝であったが、残った戦費は30億リーブル。当時の歳入は1億4500万リーブルだったのでその20倍を超えていた。
これの処理を委ねられたのはスコットランド出身のジョン・ローである。ジョン・ローは1716年6月に一般銀行という名称の銀行を設立。2年後には王立銀行と名前を変え、国民から金銀を買い取り兌換券と交換し始めた。それと並行して西方商会を立ち上げ東インド会社や中国商会を吸収しインド会社という会社に改名し、貨幣鋳造権、各種税の徴税請負権を取得する。西方商会はルイジアナの貿易独占や金鉱探索などをやっていたのでその期待から株価は上昇していた。インド会社は増資のたびに国債を額面で自社の株式と交換した。こうして集められた国債は国が少しずつ償還すればよかったのだが、そんなに甘くはなく、バブルともいえる経済は破綻してしまう。しかし、このために起こったインフレのおかげで物価上昇率は6割を超え、国債の実質価格は大きく減少し国債の処理問題は雲散霧消してしまった。その割を食ったのは一般庶民であった。

英国の中央銀行であるイングランド銀行は戦費の貸し付けを目的に作られたが、日清戦争の賠償金支払いのために清国が発行した外債はここに集められ小切手3枚に分けて日本に支払われた。そのうちの1枚は1100万ポンド。1898年の英国政府の歳入は1億1610万ポンドであったのでその1割に相当する。そしてこれは同じ年の日本の一般会計歳入の半分に相当した。この賠償金の取り扱い実務を担当したのは横浜正金銀行ロンドン支店で、今の三菱UFJ銀行である。
みずほ、三井住友、三菱UFJの各銀行は今でも日本経済に大きな影響力を持っているがこの時代から日本の行く末の左右を操っていたのである。

ウクライナ戦争はどうなっているのか、アメリカは「2022年ウクライナ民主主義防衛・武器貸与法」によって武器供与を続けている。この、「武器貸与法」は遡ること77年前、ソ連とドイツとの戦いのためも制定された。1944年の終戦間近にはソ連の国防費の27%にも上った。それが今では逆転してアメリカの支援はロシアを叩くために使われている。

最後に傭兵について。
傭兵集団というと鉄砲隊の雑賀衆を思い出すが、現在では民間軍事警備会社(PMSC)といわれる企業として成り立っている。ウクライナ戦争ではロシアのワグネルが有名になったが、世界最大のPMSCはG4Sという民間軍事警備会社である。各国の民間軍事警備会社を吸収合併し、世界90か国で事業を展開。従業員数は50万人、年間売上高は日本円換算で1兆円にも上る。日本にも拠点を持っているという。紛争地帯に傭兵を派遣するばかりではなく、危機管理の指導・監督、重要施設やイベントの警備、住宅の防犯監視、空港手荷物検査、軍・警察の業務受託、刑務所の運営受託手掛けている。ほとんど危機管理の総合商社というような業務内容である。
相場というものが確定しづらく、業務内容も特殊で武器も装備しているとなるとプリンシパル・エージェント問題という、請負側が有利という状態も生まれ、それが露見したのがプリゴジンの反乱未遂であった。

以上のことをまとめると、戦争が経済と深く結びついた理由にはふたつあることがわかる。
昔は兵士の数頼みであったものが武器の発達によって労働集約的軍隊から資本集約的軍隊に変わってしまったこと、もうひとつは戦争の規模の拡大である。中世のころの戦争は「封建領主の争い」という自治権をもった都市間での争い程度であったが近代では国家間の総力戦という形に変わり軍費が格段に増えてしまったのである。
戦争なんて誰も幸せになれない。やりたい人だけ南極辺りに集まってドンパチやってくれと思うのである。


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