まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

稀勢の里、8場所連続休場

2018年07月06日 | ブログ
この数日、関西も大雨に見舞われている。特に7月5日から6日にかけてひどく、6日は始発から多くの路線が運休や間引き運転となった。

ただそんな中でも私が利用する近鉄南大阪線は相変わらずの「最強」ぶりを見せており、大和川を渡る阪和線や南海本線・高野線が運転見合わせの中で通常運転。その後の阪神なんば線もツワモノなので出社には支障なかった。ただ、全般的に運転見合わせ区間が増えたことでさすがに午後には勤務解除の指示が出た。

そんな1日は、大雨と、オウム真理教の元教祖らの死刑執行のニュースに占められたわけだが、その次に来るのが横綱稀勢の里の休場である。宿舎でのインタビューでは何かいろいろ語っていたようで、次の出場場所に賭けるとかいうのだが、これって2ヶ月前、何なら4ヶ月前にも同じようなことを語ってなかったかな。

稀勢の里休場については、「年6場所制になってから貴乃花の7場所連続を抜いて最長」とあるが、この「年6場所制になってから」というのが気になる。年6場所になる前は本場所の数も少なかったはず。その時にはもっと休んでいた横綱がいたのだろうか。もしいなければ、「年6場所になってから」という但し書きは必要なく、「横綱として」と書けばよい。プロ野球でいうなら1リーグ時代の記録を含めて云々という話である。

過去に8場所連続休場した横綱がいたのか?・・・と見ると、いた。その名は30代横綱の西ノ海嘉治郎(3代目)。大正から昭和にかけての横綱である。3代目とあるのは、過去に2代、井筒部屋で同じ名前の横綱がいたことによる。ちなみに今の横綱の鶴竜も井筒部屋で、横綱昇進時に4代目襲名の話もあったが親方が断ったそうである。

その西ノ海、現在とは大相撲の興行形態が異なるので単純には比べられないが、当時横綱が栃木山1人だけだったこともあり、当時横綱の免許を与えていた吉田司家に相撲協会が猛プッシュしたとある。現在の昇進内規や横綱審議委員会がなかった時の話だ。

横綱昇進後に初優勝したが、興行中に土俵上で心臓発作で倒れるアクシデントがあった。その後遺症もあり成績も振るわず、在位15場所(大正時代は年2場所、昭和になってから年4場所)で会員はわずか3場所しかない。途中休場と全休が6場所ずつで、在位後半は途中休場もあり、最後は3場所全休だった。通算で8場所連続休場である。

引退後は井筒部屋から独立して浅香山部屋を興したが、わずか5年後に亡くなった。

これまで稀勢の里を含めて72人が横綱を襲名したが、ここまで書くと西ノ海が悲運の横綱だったというのがわかる。鶴竜が井筒部屋の横綱として襲名しなかったのもなるほどと思う。

時代は過ぎ、稀勢の里である。これまでの繰り返しをどこで止めるのか。もし次も「休場」となると、西ノ海を超えた正真正銘の「最弱横綱」といっていいだろう。

この名古屋場所は出ないとして、その後の夏巡業には必死で臨むとは言っているそうだが、果たして・・・。
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