2021年、新しい札所めぐりを始めることにした。
2021年の元日は当初の大阪行きの予定が変更となり広島で迎えたのだが、先の記事にも書いたように、宮島にわたり厳島神社を参詣した。思ったよりも人出は少なく、以前の広島勤務時、普通の休日で訪ねた際にはこのくらいの混み具合だったかなというくらいだった。
先の記事ではそのまま帰宅したように書いたのだが、実はこの時、厳島神社の回廊を出た先で、新しい札所めぐりの第1番札所を訪ねている。
その札所めぐりとは、広島新四国八十八ヶ所。昨年10月に広島に移って以降、こういう霊場があることは気になっていた。しかしながら、現在関西において西国三十三所の3巡目、西国四十九薬師、そして中国観音霊場と回っている上に、広島新四国八十八ヶ所というのはかなりの負担というか、逆に強欲になっているようにも思う。
そこを新たに始めようというのは、広島市を中心に近隣(西は大竹、東は三原まで)に広がっていて、あちこちの札所に行くことを通して近隣の町並みを見ることもできるのではないかということである。泊りがけで行く必要もないし、場所によって鉄道、バス、クルマなどさまざまに使えばよい。
今回厳島神社に来たとことで、ちょうど元日だし、思い立ったが何とやら、あるいは成り行きで、この機に始めることにした。
その第1番は大願寺。厳島神社の回廊を出たところにぽつんと山門があり、その奥にお堂がある。そういえばこういう寺があったな・・とご存知の観光客の方も多いのではないだろうか。手を合わせたかどうかは別として。
厳島神社、宮島には弁才天が祀られていることは知られているが、その弁才天は弘法大師空海が唐から帰った後で宮島で修行していた際に造られたとされる。大願寺の創建は平安時代とも鎌倉時代とも言われているが、長く厳島神社の別当寺の位置づけであった。しかし明治の神仏分離の時に、厳島神社に祀られていた弁才天や千畳閣の釈迦如来などの多くの仏像が移されて、神仏分離の仏の部分を引き継ぐ形になった。
その歴史を反映して、本堂の軒下に掛けられた提灯にはオールスター戦のようにさまざまな仏の名が書かれている。その中に、広島新四国八十八ヶ所の第1番の札が掲げられている。ここでお勤めである。
本堂や護摩堂、平和観音などで手を合わせて、納経所に向かう。八十八ヶ所の朱印を申し出ると、書き置きのサイズが大小あるという。実は広島新四国八十八ヶ所は、西国三十三所や本四国の八十八ヶ所とは違ってすべての札所に寺の人が常駐しているわけではなく、基本は書き置きでの対応だという。
納経帳も他とは変わっていて、そもそもの名前が「巡拝の手引き(納経帳)」である。バインダーはバインダーなのだが、その方式は1枚の表に札所寺院の案内、そして裏面に小サイズの書き置きを糊で貼りつけるものである。いつぞや、「貼り付けの朱印なんか意味がない」と啖呵をきったことがあるのだが、最初から貼りつけ前提で納経帳を作ると言われれば従うしかない。今回、2018年(平成30年)の開創100周年記念の御影も特別にわけていただく。
霊場の成り立ちその他についてはまた別の記事にするとして、これで広島生活での新しい楽しみを見つけることになった・・・。
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