何日か前のネット記事で、「鳥取市の一つの学校で、20年ぶりに学級委員長を置くことにした」というのを見つけた。
よく読めば、「鳥取県内の学校では、20年間学級委員長というものがいなかった」ということで、特に西日本で同じような学校が結構あるというのである。
全然知りませんでしたね。
何でも、学級委員長を置かない理由というのが、「なれない子どもがかわいそう」とか「差別につながる」という、何でも横並び・平等をよしとする主義からという。
一時、「運動会の徒競走で順位をつけない」「走った子どもたちが横並びで一緒にゴールする」などというのがあって、何を考えているのかと思ったが、それと同じ発想がまだ教育の現場というところでは生きているんですね。
確かに「かわいそう」という気持ちはわからなくもないが、「かわいそう」で済ましていいのかな???
大人の社会が全ていいとはいわないが、現実にはグループのリーダーになれる人間は限られる。それは総理大臣が一人しかいない、会社の社長はその会社に一人しかいないのと同じで、そういう構造で社会が形成されている以上、「社会性」を教えるのは学校の役割ではないのか。ただ何も総理大臣や社長だけが偉いのではなく、それをサポートする人を含め、社会におけるそれぞれの役割と責任というのがある。
教育に携わる人たちは、学級委員長を「絶対王政」とか、どこぞの国の将軍様みたいなものとでも思っているのかしら?
「なれない子どもがかわいそう」というのは、学級委員長の選挙というのは「人気投票」の要素が強いからだろう。だからこそ、国会議員でも学級委員長でも「人気」や「ルックス」「イメージ」で選ぶのではなく、トータル面でちゃんと考えて選ぶこと、そして、選んだからにはきちんとサポートすることを教えるべきではないだろうか。また、「なれない子ども」に対してもその現実の中からどう前向きに対処していくかを教えるべきではないだろうか。
一方で子どもの個性を伸ばすだの、自立性を養うだの言っておきながら、全く反対のことをやっとるやないか。
今の子どもたちがどうなるか心配である。
きっとどちらかなんやろうなあ。
学級委員長を置かないというのは私にはできないかも。学校行事、特に文化的な行事をするときにはみんなをまとめる役割を置く必要があり、それが学級委員長だったりします。
学級委員長を置かないということは、生徒全員が仲良くて集団としてまとまっていて、いじめなどのトラブルもない学級なんでしょうね。
あるいは教師が社会主義国の首領の如くふるまい、生徒たちに不信感をむきだしにして日々接しているか。
子どもたちに役割を与えることで、責任感を持って行動する心を養うことができます。適切な競争は自己評価を高めることにつながります。あまりに平等ばかり言いすぎると、まつなるさんのご指摘の通りのことが起こりそうで怖いです。
ブログでは総理大臣や会社の社長を例にしましたが、それは大げさとしても、会社の一つの部署を例にしても、それぞれの役割と責任というのがあります。どこの会社でもやってますよ(建前上は)。
保健委員もしかり、図書委員もしかりです。
その中で学級委員長は全体をまとめるという責任があり、保健委員の不祥事でヘマをやらかしてしまえば全体責任ということで即解任の現実も突き詰めるべきでしょう。
部外者が言うのもなんですが、教師の側がそういう役割と責任を果たすような仕組みになっていないから、このような発想が産まれるのかと勘ぐってしまいますね。