2016年からスタートすることになった「新西国三十三所めぐり」。近畿2府4県、これまで訪れたことがないところも多く、地元関西をより深く理解するきっかけになるかと思う。
ということで、まずは第1番の四天王寺に向かう。四天王寺そのものはこれまでにも休日の散歩の時にも何度もお参りしているところだし、わざわざ出かけるという感じではないのだが、新たな札所めぐりとなると改まった気持ちになる。バッグに数珠とお経の本を詰め込んで行くのは初めてだ。
阿部野橋からJR天王寺駅構内を過ぎ、そのまま四天王寺の参道を歩く。門前では仏具やら巡礼用品を売る店が並んでいる。その中の一軒に入る。これから四国遍路に出るのか、輪袈裟やら笈摺やら装束一式を選んでいる人がいる。今年は4年に一度の閏年だが、四国遍路には「閏年に逆打ちすると功徳がある」という言い伝えがあるそうだ。朱印帳も、88番から始まって1番で終わる逆打ちバージョンのものが出ている。
四国やら西国のいろいろな種類の朱印帳が並ぶ中で、そこに埋もれるようにして置かれていたのが、お目当ての新西国の専用朱印帳。新西国はこれ1種類のみで、四国や西国に比べればやはりマイナー感は否めないが、それぞれのページに寺の歴史や本尊、ご詠歌の紹介があり、実用性はある。A5サイズと、西国で私が使っていたのが大型のものだったのに比べるとコンパクトになった。
境内の真西にある鳥居をくぐる。メジャーな寺ということで多くの参拝者で賑わっている。ただkメジャーといっても地域に親しまれた庶民的なところで、敷居が低い。ふらりとやって来て手を合わせて帰るのが似合う感じだ(もちろん、きちんとお勤めする、祈祷をお願いするというのもよく似合う)。
極楽門の四隅には車輪の形をした転法輪があり、両脇には大師堂、見真堂があり、それぞれ弘法大師と親鸞聖人の像が立つ。あちらでは南無大師遍照金剛と唱える人がいるかと思うと、こちらでは南無阿弥陀仏と手を合わせる人がいる。これも四天王寺らしい光景である。
さて、新西国の対象となる本尊の救世観音は中央伽藍の金堂にいる。南大門、中門、五重塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ「四天王寺式」の伽藍。そのシンボルとも言える五重塔が現在囲いで覆われている。2022年の「聖徳太子千四百年御聖忌」に向けて耐震工事を行っている。工事は2018年までの予定。
そんな中、拝観料を納めて金堂に向かう。ここでまず新西国最初のお勤めを行う。続いて講堂には十一面観音と阿弥陀如来があり、ここでも手を合わせる。
続いて、中央伽藍の北にある石舞台と六時堂に向かう。先の中央伽藍が戦後の再建なのに対して、六時堂は江戸時代のもの。そのためかこちらのほうが風情を感じる。無料エリアということもあるのか、六時堂のほうが参拝者が多いように思う。中にはここが四天王寺の「本堂」と思っている人もいるかもしれない。ここは薬師如来が祀られていて、西国四十九薬師の札所にもなっている。ここでも般若心経のお勤め。
続いてはこちらも経木流しで知られる亀井堂。この横には不動尊が祀られており、こちらでは不動真言を熱心に唱える人も。
他にも大小さまざまなお堂があるが、それらを全て回ろうとすると結構な時間がかかる。四天王寺はいろんな信仰が集まっている。そんな四天王寺の宗派は「和宗」という独立したものである。元々聖徳太子の創建時には「○○宗」というのはなく、その後さまざまな宗派に分かれるのだが、それでも四天王寺は別格とされてきた。最澄や親鸞も聖徳太子を崇拝していたが、その中で聖徳太子が法華経を重んじていたこともあって、いつしか天台宗に属するようになった。ただ戦後になって、創建当時の基本に戻ろうということで独立し、聖徳太子の「和を以って貴しとなす」から「和宗」を名乗るようになった。「○○宗とかごちゃごちゃ関係ないねん。仏教やったら何でもええんや。オール仏教、聖徳太子さんで盛り上がったらええねん」・・・とでもいう教えかな。だから四天王寺は、何でもあり。
最後に宝物館に入る。ここでは聖徳太子の像や絵伝が収められている。最近では日本史の教科書もいろいろ変わっているようで、学説でも「聖徳太子は実在しなかった」とか「厩戸皇子というおっさんはいたが、聖徳太子という聖人は造られたものだ」というものまであるそうだ。確かに聖徳太子にまつわる伝説の多くは作り話かもしれないが、実在しなかったというのは夢のない話かと思う。仏教を盛んにし、当時の政治を変えることに大きな役割を果たした人物がいたのは間違いないだろう。
現在五重塔が耐震工事中で参拝できないということもあり、五重塔の歴史について紹介するコーナーも設けられている。現在の五重塔は史料で確認する限り8代目だそうで、平安時代には雷、火災で2度焼失し、その後は石山合戦、大坂冬の陣という戦乱、1801年の落雷、室戸台風、大阪大空襲でそれぞれ焼失や倒壊の被害に遭っている。特に室戸台風の後に再建された五重塔は、わずか5年で空襲に遭って焼失した。ただそのたびに再建されるというのは、やはり四天王寺の特別な存在というのがあるだろう。四天王寺の建つ上町台地は大阪の中で最も安定した地盤があるが、地震の場合は老朽化したコンクリート建物はかえって危ない。1400年忌を前にした耐震工事というのも、一大事業として行われることである。
ここで参拝を終え、納経所に向かう。大阪で最もメジャーな寺院、また「日本仏教最初」ということから、いろんな札所めぐりの札所となっている。それぞれの神仏をどこかの建物が担当しており、まさに「和宗」である。
ここでもさまざまな朱印帳や納経軸の見本が並んでいる。四天王寺の朱印だけでもいろいろあり、四天王寺専用の朱印帳というのもある。今回、新西国については軸は作らず朱印帳のみいただくことにしており、順番が来て専用の納経帳を出す。
書き終えると、「新西国を回ってはる方には、こちらを差し上げてます」と一枚のお札をいただいた。四天王寺の本尊、救世観音の御影である。「新西国を」というところに、この札所めぐりが聖徳太子の「和の道」をベースにしていることのこだわりが見られる。客番を含む38の札所には、聖徳太子に関連する寺院が結構あるということで、回る中でそうしたことも学べればと思う。
そろそろ境内を後にする。ちょうどこの日は大学入試センター試験が行われていたが、四天王寺学園も会場になっていたようで、試験を終えた学生たちが出て来ていたところ。門のところで出迎える親御さんらしい姿もある。その一方で予備校だかのパンフレットを配る人も。
この後は、歩いてすぐ近くにあるもう一つの札所に行く・・・。
ということで、まずは第1番の四天王寺に向かう。四天王寺そのものはこれまでにも休日の散歩の時にも何度もお参りしているところだし、わざわざ出かけるという感じではないのだが、新たな札所めぐりとなると改まった気持ちになる。バッグに数珠とお経の本を詰め込んで行くのは初めてだ。
阿部野橋からJR天王寺駅構内を過ぎ、そのまま四天王寺の参道を歩く。門前では仏具やら巡礼用品を売る店が並んでいる。その中の一軒に入る。これから四国遍路に出るのか、輪袈裟やら笈摺やら装束一式を選んでいる人がいる。今年は4年に一度の閏年だが、四国遍路には「閏年に逆打ちすると功徳がある」という言い伝えがあるそうだ。朱印帳も、88番から始まって1番で終わる逆打ちバージョンのものが出ている。
四国やら西国のいろいろな種類の朱印帳が並ぶ中で、そこに埋もれるようにして置かれていたのが、お目当ての新西国の専用朱印帳。新西国はこれ1種類のみで、四国や西国に比べればやはりマイナー感は否めないが、それぞれのページに寺の歴史や本尊、ご詠歌の紹介があり、実用性はある。A5サイズと、西国で私が使っていたのが大型のものだったのに比べるとコンパクトになった。
境内の真西にある鳥居をくぐる。メジャーな寺ということで多くの参拝者で賑わっている。ただkメジャーといっても地域に親しまれた庶民的なところで、敷居が低い。ふらりとやって来て手を合わせて帰るのが似合う感じだ(もちろん、きちんとお勤めする、祈祷をお願いするというのもよく似合う)。
極楽門の四隅には車輪の形をした転法輪があり、両脇には大師堂、見真堂があり、それぞれ弘法大師と親鸞聖人の像が立つ。あちらでは南無大師遍照金剛と唱える人がいるかと思うと、こちらでは南無阿弥陀仏と手を合わせる人がいる。これも四天王寺らしい光景である。
さて、新西国の対象となる本尊の救世観音は中央伽藍の金堂にいる。南大門、中門、五重塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ「四天王寺式」の伽藍。そのシンボルとも言える五重塔が現在囲いで覆われている。2022年の「聖徳太子千四百年御聖忌」に向けて耐震工事を行っている。工事は2018年までの予定。
そんな中、拝観料を納めて金堂に向かう。ここでまず新西国最初のお勤めを行う。続いて講堂には十一面観音と阿弥陀如来があり、ここでも手を合わせる。
続いて、中央伽藍の北にある石舞台と六時堂に向かう。先の中央伽藍が戦後の再建なのに対して、六時堂は江戸時代のもの。そのためかこちらのほうが風情を感じる。無料エリアということもあるのか、六時堂のほうが参拝者が多いように思う。中にはここが四天王寺の「本堂」と思っている人もいるかもしれない。ここは薬師如来が祀られていて、西国四十九薬師の札所にもなっている。ここでも般若心経のお勤め。
続いてはこちらも経木流しで知られる亀井堂。この横には不動尊が祀られており、こちらでは不動真言を熱心に唱える人も。
他にも大小さまざまなお堂があるが、それらを全て回ろうとすると結構な時間がかかる。四天王寺はいろんな信仰が集まっている。そんな四天王寺の宗派は「和宗」という独立したものである。元々聖徳太子の創建時には「○○宗」というのはなく、その後さまざまな宗派に分かれるのだが、それでも四天王寺は別格とされてきた。最澄や親鸞も聖徳太子を崇拝していたが、その中で聖徳太子が法華経を重んじていたこともあって、いつしか天台宗に属するようになった。ただ戦後になって、創建当時の基本に戻ろうということで独立し、聖徳太子の「和を以って貴しとなす」から「和宗」を名乗るようになった。「○○宗とかごちゃごちゃ関係ないねん。仏教やったら何でもええんや。オール仏教、聖徳太子さんで盛り上がったらええねん」・・・とでもいう教えかな。だから四天王寺は、何でもあり。
最後に宝物館に入る。ここでは聖徳太子の像や絵伝が収められている。最近では日本史の教科書もいろいろ変わっているようで、学説でも「聖徳太子は実在しなかった」とか「厩戸皇子というおっさんはいたが、聖徳太子という聖人は造られたものだ」というものまであるそうだ。確かに聖徳太子にまつわる伝説の多くは作り話かもしれないが、実在しなかったというのは夢のない話かと思う。仏教を盛んにし、当時の政治を変えることに大きな役割を果たした人物がいたのは間違いないだろう。
現在五重塔が耐震工事中で参拝できないということもあり、五重塔の歴史について紹介するコーナーも設けられている。現在の五重塔は史料で確認する限り8代目だそうで、平安時代には雷、火災で2度焼失し、その後は石山合戦、大坂冬の陣という戦乱、1801年の落雷、室戸台風、大阪大空襲でそれぞれ焼失や倒壊の被害に遭っている。特に室戸台風の後に再建された五重塔は、わずか5年で空襲に遭って焼失した。ただそのたびに再建されるというのは、やはり四天王寺の特別な存在というのがあるだろう。四天王寺の建つ上町台地は大阪の中で最も安定した地盤があるが、地震の場合は老朽化したコンクリート建物はかえって危ない。1400年忌を前にした耐震工事というのも、一大事業として行われることである。
ここで参拝を終え、納経所に向かう。大阪で最もメジャーな寺院、また「日本仏教最初」ということから、いろんな札所めぐりの札所となっている。それぞれの神仏をどこかの建物が担当しており、まさに「和宗」である。
ここでもさまざまな朱印帳や納経軸の見本が並んでいる。四天王寺の朱印だけでもいろいろあり、四天王寺専用の朱印帳というのもある。今回、新西国については軸は作らず朱印帳のみいただくことにしており、順番が来て専用の納経帳を出す。
書き終えると、「新西国を回ってはる方には、こちらを差し上げてます」と一枚のお札をいただいた。四天王寺の本尊、救世観音の御影である。「新西国を」というところに、この札所めぐりが聖徳太子の「和の道」をベースにしていることのこだわりが見られる。客番を含む38の札所には、聖徳太子に関連する寺院が結構あるということで、回る中でそうしたことも学べればと思う。
そろそろ境内を後にする。ちょうどこの日は大学入試センター試験が行われていたが、四天王寺学園も会場になっていたようで、試験を終えた学生たちが出て来ていたところ。門のところで出迎える親御さんらしい姿もある。その一方で予備校だかのパンフレットを配る人も。
この後は、歩いてすぐ近くにあるもう一つの札所に行く・・・。
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