7月15日の日中暑い盛り、土讃線の窪川に降り立つ。これまでも予土線、土佐くろしお鉄道の乗り換えで来たことはあるが、町の印象はほとんど残っていない。これから訪れる岩本寺も、四国の札所としてではなく、ユースホステルがある宿坊ということで、10~20歳代の時に入会していたユースホステルのカタログに載っていたのを憶えているくらいだ(現在も宿坊は営業しているようだが、ユースホステルからは外れている)。
その岩本寺は、駅から歩いて数分のところにある。これまで訪ねた四国の札所の中でももっとも駅近の部類に入る。ただこの暑さである。荷物を入れたバッグをコインロッカーにでも預けられないかと思うがそういうものはなし。ここはかついで行けということか。
駅に隣接して真新しい木造風の建物がある。四万十町役場の西庁舎で、土曜日だが1階はロビーと観光案内で開放されている。こちら四万十町は、窪川町、大正町、十和村が「平成の大合併」による誕生した町である。同じ県内には中村市が中心となってできた四万十市というのもあり、紛らわしくないのかなと思う。ロビーで笈摺を羽織り、金剛杖をケースから取り出す。今回は札所に行くのにほとんど歩く場面はないが、やはりここまで来ると金剛杖は「形」として手放すことはできない。これを持ち、リュックとバッグを振り分け荷物のようにかついで寺を目指す。
歩いてすぐのところで窪川の町の昔ながらの商店街に出る。一本奥の道に入ると岩本寺の参道である。古民家を改装したカフェがあり、果物店と甘味処に挟まれた路地に石柱があり、その奥が山門である。山門をくぐると線路を列車が走る音が聞こえてきた。正面奥に目をやるとちょうど木々の向こうを黄色い車体が走り抜けて行った。予土線のトロッコ列車である。
山門を入ったすぐ左手が納経所で、その前には休憩用のベンチがある。バッグと金剛杖はこちらに置かせてもらい、そのまま本堂に向かう。団体客はおろか他の参詣者の姿もほとんどなく、静かな雰囲気である。
本堂は昭和に建てられたもので、開放的な雰囲気である。そして天井には全国から公募したという格天井画が並ぶ。全部で575枚あるというが、花鳥風月、仏画、人物などさまざまなテーマで書かれている。
その開放的な本堂にてお勤めであるが、般若心経の後で本尊の真言を唱えるにあたりちょっとびっくり。通常は本尊は一つなのだが、ここは何と五つもある。不動明王、観世音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来、そして地蔵菩薩。普通は、本堂にどれか一つが本尊として収まっており、他の仏は境内の別のところで「○○堂」という形で配置されているのだが、岩本寺は5つ勢揃いである。この中で一応「センター」は不動明王のようだが、かといってこれがメインでこれがサブというものではない。5人それぞれソロでも主役を張れるところはSMAPか嵐かというところだろう。
これは岩本寺の歴史に関係することで、八十八所のホームページと五来重『四国遍路の寺』によれば、元々は聖武天皇の勅命により行基が現在地から北西に3キロほど離れた仁井田明神のそばに寺を建立したとある。これが福圓満寺というもので、仁井田明神の別当寺であった。その後、弘法大師が仁井田明神の御神体を五つの社に分け、それぞれの本地仏として上記の五つの仏像を祀った。神仏習合の時代にはこういうことは自然なことだったようだ。
時代が下り、戦乱などで福圓満寺は衰退したが、江戸時代になり、窪川の宿坊であった岩本坊に札所の権利が移り、岩本寺という名前になった。さらに明治初期には神仏分離により仁井田の五つの社も切り離された。その時仏像は岩本寺がまとめて引き取ったのだが、しばらくすると仏像だけでなく37番の札所の権利までもが愛媛の八幡浜の吉蔵寺に移された。吉蔵寺の寺伝では、住職の夢の中で鐘の音を聞き、翌朝仏間に37枚の納め札があったという。そこで37番の岩本寺のことを調べると非常に苦しい財務状況だったそうで、ならばと仏像と37番札所の権利を買った。廃仏毀釈で多くの寺の経営が行き詰った明治の初めのことである。
ただ、廃仏毀釈が収まり、また四国八十八所巡礼も行われるようになると、さすがに37番が八幡浜にあるのは困惑するという遍路からの苦情が出たり(八幡浜は、札所番号でいえば43番と44番の間に位置する)、岩本寺側からも仏像と札所の権利の返還を求められるようになった。裁判にもなり、その結果岩本寺に仏像と権利は戻されたが、吉蔵寺もしばらくは「37番」の看板を掲げていたようである。何だか芸能人の事務所の移籍話のゴタゴタにも似ているように思う(だからSMAPじゃないって・・・)。
この経緯について書いたのは、大正時代に書かれ、今でも「遍路」の愛好者には読まれている高群逸枝の『娘巡礼記』の一節にあったからである。
この後で大師堂でもお勤めを行う。さらに、本坊の中には岩本寺の奥の院ということで「矢負地蔵」というのが祀られており、参詣者は誰でも拝めるというので中に入る。昔、この地に信心深い猟師がいた。ある時、獲物が見つからず、「これ以上の殺生は無益だ」として自分の胸を矢で射た。すると妻に起こされ、傍らを見ると胸に矢が刺さった地蔵菩薩像が倒れていた。身代わりになったということで、この寺で手厚く祀るようになったという。
境内にいる間に白衣や笈摺姿の巡拝者の姿も少しずつ出てきた。ここで納経所に朱印をいただき、岩本寺を後にする。時刻は15時前で、駅前の商店街にはドラッグストアがあるくらいで、涼みに立ち寄れそうなコンビニなどはない。この日の札所めぐりはこれで終了ということで、役場まで戻り、とりあえず笈摺を脱ぐ。次の列車は15時半発で、このまま宿泊地の中村に向かえばよいのだが、実は八十八所とは関係ないのだが、途中下車したいスポットが1ヶ所ある。とりあえずはそこを目指すことに・・・・。
その岩本寺は、駅から歩いて数分のところにある。これまで訪ねた四国の札所の中でももっとも駅近の部類に入る。ただこの暑さである。荷物を入れたバッグをコインロッカーにでも預けられないかと思うがそういうものはなし。ここはかついで行けということか。
駅に隣接して真新しい木造風の建物がある。四万十町役場の西庁舎で、土曜日だが1階はロビーと観光案内で開放されている。こちら四万十町は、窪川町、大正町、十和村が「平成の大合併」による誕生した町である。同じ県内には中村市が中心となってできた四万十市というのもあり、紛らわしくないのかなと思う。ロビーで笈摺を羽織り、金剛杖をケースから取り出す。今回は札所に行くのにほとんど歩く場面はないが、やはりここまで来ると金剛杖は「形」として手放すことはできない。これを持ち、リュックとバッグを振り分け荷物のようにかついで寺を目指す。
歩いてすぐのところで窪川の町の昔ながらの商店街に出る。一本奥の道に入ると岩本寺の参道である。古民家を改装したカフェがあり、果物店と甘味処に挟まれた路地に石柱があり、その奥が山門である。山門をくぐると線路を列車が走る音が聞こえてきた。正面奥に目をやるとちょうど木々の向こうを黄色い車体が走り抜けて行った。予土線のトロッコ列車である。
山門を入ったすぐ左手が納経所で、その前には休憩用のベンチがある。バッグと金剛杖はこちらに置かせてもらい、そのまま本堂に向かう。団体客はおろか他の参詣者の姿もほとんどなく、静かな雰囲気である。
本堂は昭和に建てられたもので、開放的な雰囲気である。そして天井には全国から公募したという格天井画が並ぶ。全部で575枚あるというが、花鳥風月、仏画、人物などさまざまなテーマで書かれている。
その開放的な本堂にてお勤めであるが、般若心経の後で本尊の真言を唱えるにあたりちょっとびっくり。通常は本尊は一つなのだが、ここは何と五つもある。不動明王、観世音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来、そして地蔵菩薩。普通は、本堂にどれか一つが本尊として収まっており、他の仏は境内の別のところで「○○堂」という形で配置されているのだが、岩本寺は5つ勢揃いである。この中で一応「センター」は不動明王のようだが、かといってこれがメインでこれがサブというものではない。5人それぞれソロでも主役を張れるところはSMAPか嵐かというところだろう。
これは岩本寺の歴史に関係することで、八十八所のホームページと五来重『四国遍路の寺』によれば、元々は聖武天皇の勅命により行基が現在地から北西に3キロほど離れた仁井田明神のそばに寺を建立したとある。これが福圓満寺というもので、仁井田明神の別当寺であった。その後、弘法大師が仁井田明神の御神体を五つの社に分け、それぞれの本地仏として上記の五つの仏像を祀った。神仏習合の時代にはこういうことは自然なことだったようだ。
時代が下り、戦乱などで福圓満寺は衰退したが、江戸時代になり、窪川の宿坊であった岩本坊に札所の権利が移り、岩本寺という名前になった。さらに明治初期には神仏分離により仁井田の五つの社も切り離された。その時仏像は岩本寺がまとめて引き取ったのだが、しばらくすると仏像だけでなく37番の札所の権利までもが愛媛の八幡浜の吉蔵寺に移された。吉蔵寺の寺伝では、住職の夢の中で鐘の音を聞き、翌朝仏間に37枚の納め札があったという。そこで37番の岩本寺のことを調べると非常に苦しい財務状況だったそうで、ならばと仏像と37番札所の権利を買った。廃仏毀釈で多くの寺の経営が行き詰った明治の初めのことである。
ただ、廃仏毀釈が収まり、また四国八十八所巡礼も行われるようになると、さすがに37番が八幡浜にあるのは困惑するという遍路からの苦情が出たり(八幡浜は、札所番号でいえば43番と44番の間に位置する)、岩本寺側からも仏像と札所の権利の返還を求められるようになった。裁判にもなり、その結果岩本寺に仏像と権利は戻されたが、吉蔵寺もしばらくは「37番」の看板を掲げていたようである。何だか芸能人の事務所の移籍話のゴタゴタにも似ているように思う(だからSMAPじゃないって・・・)。
この経緯について書いたのは、大正時代に書かれ、今でも「遍路」の愛好者には読まれている高群逸枝の『娘巡礼記』の一節にあったからである。
この後で大師堂でもお勤めを行う。さらに、本坊の中には岩本寺の奥の院ということで「矢負地蔵」というのが祀られており、参詣者は誰でも拝めるというので中に入る。昔、この地に信心深い猟師がいた。ある時、獲物が見つからず、「これ以上の殺生は無益だ」として自分の胸を矢で射た。すると妻に起こされ、傍らを見ると胸に矢が刺さった地蔵菩薩像が倒れていた。身代わりになったということで、この寺で手厚く祀るようになったという。
境内にいる間に白衣や笈摺姿の巡拝者の姿も少しずつ出てきた。ここで納経所に朱印をいただき、岩本寺を後にする。時刻は15時前で、駅前の商店街にはドラッグストアがあるくらいで、涼みに立ち寄れそうなコンビニなどはない。この日の札所めぐりはこれで終了ということで、役場まで戻り、とりあえず笈摺を脱ぐ。次の列車は15時半発で、このまま宿泊地の中村に向かえばよいのだが、実は八十八所とは関係ないのだが、途中下車したいスポットが1ヶ所ある。とりあえずはそこを目指すことに・・・・。
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