最上川ラインを下り、余目から酒田に向かう。途中、ガタンと減速する。そういえば・・・ここは最上川橋梁の手前、ふと右手の車窓を見やると喪服姿の集団やテレビカメラの群れが見えた。そういえばここは昨年の冬、特急「いなほ」が脱線した現場。これは今夜の宿で見たニュースで気付いたのだが、あの事故からちょうど半年だったのだ。ゆっくりと最上川橋梁を渡り、酒田の町に入る。
羽越線で何回か通った酒田であるが、改札口を出るのは初めてである。庄内地方随一の町であり、昔からの港町とあって、何か歴史の香りのようなものを感じたかったのが、今回の旅の目的の一つである。
港町のこととて、港から離れている駅前は閑散とした雰囲気。中心部まで移動を要する。駅構内の観光案内所でレンタサイクルを扱っており、これにまたがって町並みを走る。たどり着いたのが運河のほとりにある山居倉庫。
江戸の頃から庄内平野でとれる質のよい米、そして北前船の寄港地として栄えた酒田の町。明治になり酒田に米穀取引所ができ、その倉庫として建てられたのがこの山居倉庫という。10棟以上連なるこの倉庫、一部は「酒田夢の倶楽」としてギャラリーやショッピングコーナーになったり、また「庄内米歴史資料館」になったりして開放されているが、中ほどの棟は今でも現役の農業倉庫という。一時は酒田をはじめとした地域経済を一手に引き受けていた、現在で言うならさしずめ「酒田証券取引所」とでもいおうか。最上川を下ってきた「おしん」が奉公にやられたのも、酒田のそんな問屋の一つだったという。
その「庄内米歴史資料館」に入る。もう、米、こめ、コメ。かつてのコメの町として栄えた酒田の風情や、稲作の一年を紹介したり、女性が米俵をかついでいたり・・・。同じ出羽の国、山形県といっても、盆地の地形で畑作を営んでいた山形地区と、海に開けた平野で大規模な米作りを営んでいた庄内地区では気質も随分違うことであろう。
この倉庫の裏手には、日よけのケヤキ並木が続く。酒田の町の紹介には必ずといっていいほど取り上げられる撮影スポット。こちらに来て日がさしこみ暑さすら感じるのだが、このケヤキ並木のために実に涼しげに感じる。この日よけが、庄内米を定温で保管するのに役立っているという。
ここまで来れば炊き立ての庄内米を食べたいな~と思ったが、残念ながら「ごはん」を売っているのをみかけなかった。口の中に唾液を残しつつ、自転車を走らせる。
市役所の向かいにある旧「鐙屋」という商家へ。こちらはこの酒田の港を仕切っていた廻船問屋で、庄内の豊かな米を北海道や大坂へと積み出して利益を上げていたという。この「鐙屋」の繁栄は、井原西鶴の「日本永代蔵」でも取り上げられており、「表口三十間裏行六十五間を、家蔵に立つづけ、台所の有様、目を覚ましける」と、広大な敷地を持ち、大坂、江戸、京の問屋衆との交わりも強かったという。
現在は縮小され、わずかな部分だけが保存されているが、往年の栄華をしのぶことができる。よく北国の日本海側の歴史となると、雪国のための生活の厳しい部分や「貧しさ」というのがことさら強調されるように思うのだが、実際には米どころを持ち、しっかりと貨幣経済にも順応していた人物もいるものである。
いつまでも「何万石」という、江戸時代の殿様と何ら変わらない農業史観ばかり教え、北前船のような経済史を見落とす学校の歴史の時間は何とかならないのかとさえ思う。
本当はこの後で地元の豪商・本間家の旧家や美術館も見たかったのだが、残念ながら時間がなさそうだ。自転車こいで駅に戻る。
ホームで待っていたのが、これから乗る「きらきらうえつ」号である・・・(続く)。
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