吉野の中千本からの下り~上りの1キロあまりの道を歩き、最後には100段近い石段が待つ。「後醍醐天皇即位七百年」の幟が立つ。後醍醐天皇は1318年に即位し、鎌倉幕府や南北朝の争いの中で廃位や譲位もあり、1339年にこの吉野で亡くなった。如意輪寺は平安時代中期、真言宗の修験者であった日蔵が開いたとされており、如意輪寺という名前は後醍醐天皇の念持仏である如意輪観音を本尊としたことからだという。後醍醐天皇が吉野で南朝を開いた時は勅願寺とした。南朝の衰退とともに寺も衰えたが、江戸時代になる浄土宗の寺として再興し、後醍醐天皇陵を守るような形で現在に至っている。
吉野のメインストリートからさらに分け入ったところにあるためか、先ほどよりもひっそりした佇まいの境内で、まずは本堂の如意輪堂でお勤めとする。毎年9月27日は、後醍醐天皇が亡くなった旧暦の8月16日にちなんで後醍醐天皇御忌という法要が行われ、その日に限って本堂の内部が拝観できる。平日でもあるし、この近畿三十六不動めぐりも行事や法要の日程はあまり関係なく回っているので、そういうものなのかと思う。吉野にあって後醍醐天皇という人物は今でも慕われる対象であることが感じられる。
・・・と書いて思い出したが、そもそも今回は近畿三十六不動めぐりで吉野に来ているのだった。蔵王堂にて役行者や蔵王権現に触れた後なので不動明王の陰が少し薄くなっているようだが、札所に選定された難切不動尊は如意輪堂の右手の不動堂に祀られている石像である。寺のホームページによると、石像としては日本一の大きさだという不動明王像がいつ頃造られたのかは触れられていないが、元々吉野に上る途中の不動坂に祀られていたのが、およそ60年前、ある信者に「如意輪寺に行きたい」とお告げがあり、この寺に祀られるようになったとある。その昔には坂道から牛車が転落した時にその農夫の身代わりとなって負傷したそうで、交通安全の守護として、またあらゆる災難を切ってくれるので難切不動尊と呼ばれるようになった。これらの言い伝えと、「吉野からも一ヶ所選定しておこう」ということから如意輪寺が不動めぐりに入ったのかな。
如意輪堂の裏手にある後醍醐天皇陵にも行く。「身はたとえ南山の苔に埋むるとも、魂魄は常に北闕の天を望まん」という天皇の遺志を表すように、天皇陵としては唯一北(京都)の方を向いて葬られた。終生を「天皇親政」「武士との戦い」に費やした天皇だった。
本坊のベルを鳴らして、三十六不動の朱印と、有料拝観をお願いする。この奥のエリアが有料となっている。朱印は用意しておくのでどうぞということで中に入る。まず目に入るのは後醍醐天皇の御霊殿で、天皇自作の木造が安置されている。ここも後醍醐天皇御忌の時に開扉される。
楠公父子の石像がある。楠木正成、正行父子の「桜井の別れ」の場面である。特に戦前は「滅私奉公」の教材として国語や修身の教科書でも紹介されており、戦後はその反動で「天皇崇拝」、「軍国主義」の現れとして否定的に扱われるという、太平記の時代の評価の難しさを表す場面であるが、歴史の教養としては知っておく必要はあると思う。
桜井で父正成と別れた正行は南朝方の武将として成長し、北朝方との戦いに挑む。一族郎党とともに吉野の後村上天皇に挨拶し、如意輪寺にて後醍醐天皇陵に参拝し、如意輪堂の扉に鏃で辞世の歌を刻んだ。「かえらじと かねておもえば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」という、この戦いで生きて帰らない覚悟を残し、四条畷の戦いに討ち死にをした。
この時の扉が宝物館に保存されているので入ってみる。入口には座椅子というのか、簡易ベッドのようなものが置かれている。これは何だろうか。
天井には如意輪観音が描かれており、仰向けになるとちょうど正面に拝むことができる。「ねおがみ観音」というもので、なかなか珍しいものではないかと思う。
宝物館にはその扉をはじめ、蔵王権現像や楠木正行の遺品とされる武具、吉野曼荼羅などが展示されている。
奥には多宝塔があり、周りには寄贈で植えられた桜の木が並び、寄贈した人の名札も立てられている。
その中に「広島県 亀井静香」の名前がある。広島県で亀井静香といえば・・あの元国会議員である。どういう経緯で南朝ゆかりの地を訪ねたのかはわからないが、かつては自民党の重鎮、大臣も務めた人物だったが、郵政民営化に反対して自民党を離れ、「郵政選挙」では刺客(ホリエモン)を送られ、その後は国民新党にて自らの正統性?を誇示し続けた。ひょっとしたら自身を楠木正成、正行に置き換えたのかもしれない。
さらにその近くには「北海道 鈴木宗男」という立札が。北海道で鈴木宗男といえば・・・これもあの元国会議員である。こちらもどういう経緯で南朝ゆかりの地を訪ねたのかはわからないが、北方領土開発に絡む事件で起訴・有罪となり、その後は新党大地にも身を置いた。こちらも南朝方に自身の境遇を重ねたのかもしれない。
当時は小泉純一郎が「自民党をぶっ壊す」として国民からの人気を集め、郵政民営化を巡っては「抵抗勢力」に対する「刺客」を送ったり、いわゆる「劇場型政治」が支持された頃である。南北朝時代とは単純に置き換えられないが、北朝(小泉純一郎や田中真紀子)と南朝(亀井静香や鈴木宗男)というように見えなくもない。
如意輪寺からかなり話がそれてきたように思うが、現代においても敗者の悲哀を感じさせる寺であった。難切不動尊の影が薄い紀行文になったが、今回は列車もそうだし、吉野全体を楽しむことができたので満足である。
有料エリアから戻ると、朱印も袋に入れられて受付台に置かれていた。これを受けて、次の札所を決めるくじ引きとサイコロで・・・
1.湖西(葛川明王院)
2.嵯峨(大覚寺、仁和寺、蓮華寺)
3.神戸北(無動寺)
4.河内長野(明王寺)
5.東山(聖護院、青蓮院、智積院)
6.醍醐(醍醐寺)
サイコロの目は「2」、京都市街である。今回大覚寺が含まれるのは、後醍醐天皇が大覚寺統だったことで偶然とはいえつながりを感じる。
如意輪寺を後にして、山道から吉野駅へ直接続く車道を歩く。吉野温泉の元湯がある谷の道だがクルマも通らず、静かな中を歩くこと30分で駅まで戻って来た。
直近の特急に乗ることにして時刻表を見ると、15時04分発の特急がある。往路の「青の交響曲」とは異なり、昔からの南大阪・吉野線特急の車両である16000系。蒸し暑い中を歩いたので冷房が涼しく感じる。
次に訪ねるのは京都市街、早ければこの連休中にでも行ってみたいところだが、各寺のページを見て「これは10月にしたほうがいいな」と少し間を空けることにする。その理由はその時に書くとして・・・。
吉野のメインストリートからさらに分け入ったところにあるためか、先ほどよりもひっそりした佇まいの境内で、まずは本堂の如意輪堂でお勤めとする。毎年9月27日は、後醍醐天皇が亡くなった旧暦の8月16日にちなんで後醍醐天皇御忌という法要が行われ、その日に限って本堂の内部が拝観できる。平日でもあるし、この近畿三十六不動めぐりも行事や法要の日程はあまり関係なく回っているので、そういうものなのかと思う。吉野にあって後醍醐天皇という人物は今でも慕われる対象であることが感じられる。
・・・と書いて思い出したが、そもそも今回は近畿三十六不動めぐりで吉野に来ているのだった。蔵王堂にて役行者や蔵王権現に触れた後なので不動明王の陰が少し薄くなっているようだが、札所に選定された難切不動尊は如意輪堂の右手の不動堂に祀られている石像である。寺のホームページによると、石像としては日本一の大きさだという不動明王像がいつ頃造られたのかは触れられていないが、元々吉野に上る途中の不動坂に祀られていたのが、およそ60年前、ある信者に「如意輪寺に行きたい」とお告げがあり、この寺に祀られるようになったとある。その昔には坂道から牛車が転落した時にその農夫の身代わりとなって負傷したそうで、交通安全の守護として、またあらゆる災難を切ってくれるので難切不動尊と呼ばれるようになった。これらの言い伝えと、「吉野からも一ヶ所選定しておこう」ということから如意輪寺が不動めぐりに入ったのかな。
如意輪堂の裏手にある後醍醐天皇陵にも行く。「身はたとえ南山の苔に埋むるとも、魂魄は常に北闕の天を望まん」という天皇の遺志を表すように、天皇陵としては唯一北(京都)の方を向いて葬られた。終生を「天皇親政」「武士との戦い」に費やした天皇だった。
本坊のベルを鳴らして、三十六不動の朱印と、有料拝観をお願いする。この奥のエリアが有料となっている。朱印は用意しておくのでどうぞということで中に入る。まず目に入るのは後醍醐天皇の御霊殿で、天皇自作の木造が安置されている。ここも後醍醐天皇御忌の時に開扉される。
楠公父子の石像がある。楠木正成、正行父子の「桜井の別れ」の場面である。特に戦前は「滅私奉公」の教材として国語や修身の教科書でも紹介されており、戦後はその反動で「天皇崇拝」、「軍国主義」の現れとして否定的に扱われるという、太平記の時代の評価の難しさを表す場面であるが、歴史の教養としては知っておく必要はあると思う。
桜井で父正成と別れた正行は南朝方の武将として成長し、北朝方との戦いに挑む。一族郎党とともに吉野の後村上天皇に挨拶し、如意輪寺にて後醍醐天皇陵に参拝し、如意輪堂の扉に鏃で辞世の歌を刻んだ。「かえらじと かねておもえば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」という、この戦いで生きて帰らない覚悟を残し、四条畷の戦いに討ち死にをした。
この時の扉が宝物館に保存されているので入ってみる。入口には座椅子というのか、簡易ベッドのようなものが置かれている。これは何だろうか。
天井には如意輪観音が描かれており、仰向けになるとちょうど正面に拝むことができる。「ねおがみ観音」というもので、なかなか珍しいものではないかと思う。
宝物館にはその扉をはじめ、蔵王権現像や楠木正行の遺品とされる武具、吉野曼荼羅などが展示されている。
奥には多宝塔があり、周りには寄贈で植えられた桜の木が並び、寄贈した人の名札も立てられている。
その中に「広島県 亀井静香」の名前がある。広島県で亀井静香といえば・・あの元国会議員である。どういう経緯で南朝ゆかりの地を訪ねたのかはわからないが、かつては自民党の重鎮、大臣も務めた人物だったが、郵政民営化に反対して自民党を離れ、「郵政選挙」では刺客(ホリエモン)を送られ、その後は国民新党にて自らの正統性?を誇示し続けた。ひょっとしたら自身を楠木正成、正行に置き換えたのかもしれない。
さらにその近くには「北海道 鈴木宗男」という立札が。北海道で鈴木宗男といえば・・・これもあの元国会議員である。こちらもどういう経緯で南朝ゆかりの地を訪ねたのかはわからないが、北方領土開発に絡む事件で起訴・有罪となり、その後は新党大地にも身を置いた。こちらも南朝方に自身の境遇を重ねたのかもしれない。
当時は小泉純一郎が「自民党をぶっ壊す」として国民からの人気を集め、郵政民営化を巡っては「抵抗勢力」に対する「刺客」を送ったり、いわゆる「劇場型政治」が支持された頃である。南北朝時代とは単純に置き換えられないが、北朝(小泉純一郎や田中真紀子)と南朝(亀井静香や鈴木宗男)というように見えなくもない。
如意輪寺からかなり話がそれてきたように思うが、現代においても敗者の悲哀を感じさせる寺であった。難切不動尊の影が薄い紀行文になったが、今回は列車もそうだし、吉野全体を楽しむことができたので満足である。
有料エリアから戻ると、朱印も袋に入れられて受付台に置かれていた。これを受けて、次の札所を決めるくじ引きとサイコロで・・・
1.湖西(葛川明王院)
2.嵯峨(大覚寺、仁和寺、蓮華寺)
3.神戸北(無動寺)
4.河内長野(明王寺)
5.東山(聖護院、青蓮院、智積院)
6.醍醐(醍醐寺)
サイコロの目は「2」、京都市街である。今回大覚寺が含まれるのは、後醍醐天皇が大覚寺統だったことで偶然とはいえつながりを感じる。
如意輪寺を後にして、山道から吉野駅へ直接続く車道を歩く。吉野温泉の元湯がある谷の道だがクルマも通らず、静かな中を歩くこと30分で駅まで戻って来た。
直近の特急に乗ることにして時刻表を見ると、15時04分発の特急がある。往路の「青の交響曲」とは異なり、昔からの南大阪・吉野線特急の車両である16000系。蒸し暑い中を歩いたので冷房が涼しく感じる。
次に訪ねるのは京都市街、早ければこの連休中にでも行ってみたいところだが、各寺のページを見て「これは10月にしたほうがいいな」と少し間を空けることにする。その理由はその時に書くとして・・・。
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