まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

兵庫11番「赤穂大石神社」~神仏霊場巡拝の道・46(赤穂義士、赤穂浪士に思いを馳せて・・)

2023年02月04日 | 神仏霊場巡拝の道

播州赤穂に到着し、赤穂駅近くで牡蠣づくしの昼食とした後、赤穂城に向かう。

その途中にあるのが花岳寺である。花岳寺は新西国三十三所の一つとして参詣したことがある。赤穂浅野家の菩提寺であるとともに、浅野家の取り潰し後に赤穂藩主となった森氏の菩提寺でもある。また今回はお参りを省略したが、境内には赤穂義士たちの墓所もある。

ここで、「赤穂義士」と書いたが、四十七士の呼び方もいろいろあり、私の感覚では「赤穂浪士」のほうが一般的かなと思う。ただ、地元赤穂の人たちにすれば「浪士」という響きはよろしくなく、あくまで「義士」である。

いろいろ解説を読むと、元々は「忠臣蔵」にあるように「忠義の士」だったのが、大佛次郎が昭和の初めに、四十七士を幕府に反抗する「浪士」という捉え方をした小説「赤穂浪士」を著し、昭和の金融恐慌の時代にヒットした。そして、それを原作として映画やドラマが制作されたことから、「赤穂浪士」という呼び方が広まったとされている。

赤穂城の大手門に到着。赤穂城といえばこの眺めではないかと思う。

入城し、大石邸の長屋門前を過ぎる。この奥が大石内蔵助の邸宅があったところで、その跡地に目指す赤穂大石神社が鎮座している。

そのまま進むと鳥居に出る。参道に「忠魂義膽(ちゅうこんぎたん)」と刻まれた柱石がある。東郷平八郎の揮毫とある。

また、四十七士の石像が出迎える。表門組、裏門組が左右に分かれており、最後に大石内蔵助、主税親子が並ぶ。これも神社の演出である。忠臣蔵ファンにはたまらないだろう。

楼門には浅野家、大石家の家紋が並ぶ。

境内には「大願成就」の文字が目立つ。浅野家取り潰し後、さまざまな困難に耐えて主君の仇討ちを果たした義士たちにあやかってのご利益とされている。「大願成就」とはあらゆる場面で使える願い事。志望校への合格、スポーツ大会での勝利、恋愛・・と、大願は人それぞれである。

赤穂大石神社はかつての大石邸の跡地に建てられているが、江戸時代は幕府の目もあるので小さな祠があるくらいだった。後に明治天皇が、四十七士を義士として称える宣旨を出し、金幣と賜ったのを機に神社を建立する動きが出て、大正元年に四十七士を祭神として祀る大石神社として建立された。後に、浅野家三代の城主や、赤穂神社に祀られていた森家の祖霊なども合祀され、2000年に赤穂大石神社という新たな神社となった。神仏霊場めぐりの札所として多くの神社が参加しているが、「古事記」などに登場する「○○○ノミコト」ではなく、近世の実在の人物が祭神の神社が加わっているのも面白い。

拝殿の周りには赤穂事件の流れから、明治天皇の宣旨により神社が建立されるまでの流れが絵馬に描かれて紹介されている。ちょうど教育勅語も出たし、国家運営の中に「忠義」というものが取り入れられた頃。忠臣蔵は格好の題材だったことだろう。

宝物殿に向かう。大石内蔵助や四十七士たちの所持品、討ち入りの時に使われた装束などが展示されている。また、赤穂大石神社に参詣した多くの有名人たちの写真も展示されている。毎年12月14日に行われる「赤穂義士祭」にゲスト出演したり、映画やドラマで大石内蔵助役を演じるというので参詣したり、あるいは旅番組のロケで訪れたり・・と、赤穂でも人気のスポットであることがうかがえる。

別棟には義士木像奉安殿がある。討ち入りから250年を記念して、1953年に当代一流のさまざまな彫刻家の手により、四十七士、浅野内匠頭、萱野三平の49体の木像が彫られ、奉納されている。いずれも討ち入り装束ではなく、義士の日常の姿をイメージしたものばかりである。四十七士それぞれに逸話があるそうで、そこに作者が描くイメージも盛り込んだものである。

思えば、主君・浅野内匠頭の刃傷により、その後の人生ががらりと変わり、はからずも300年以上経ってその名が語り継がれるとは、当の義士、浪士たちも思わなかったことだろう。事件が起こらなければ、大石内蔵助は「昼行灯」のまま、小藩の家老として平穏な生涯を送っただろうし、萱野三平も忠義と親孝行の板挟みで自害することもなかった。話はいきなりぶっ飛ぶのだが、開業100年を迎える大阪の立ち飲み屋「赤垣屋」が生まれることもなかったかもしれない。

一方で、討ち入りには加わらなかったものの、浅野家取り潰しにより浪人の身となった他の藩士たちも、その後の人生がある。そうした人物にスポットを当てた小説もあるようだ。

赤穂事件、忠臣蔵はこうした人間模様、あるいは立ち位置によってさまざまな描き方が可能な題材とされている。かつては「義士」として評されていたのが、大佛次郎のように「浪士」となったり、さらに時代が下った現代では「テロリスト」という見方も出ている。四十七士がなぜ討ち入りをしたのかというのも、「仇討ち」という見方がある一方で、彼らの「就活」だったという見方もある。フィクションの部分も多いから、時代背景により、また人により、さまざまなイメージを膨らませることもできる。それが今でも忠臣蔵、赤穂義士、赤穂浪士が題材になる理由なのだろう。

赤穂大石神社の朱印をいただく。これで兵庫県最初となる。神仏霊場めぐりも46ヶ所目だが、この記事を書くにあたり、「どうせなら47ヶ所目に回ればよかったかな・・」と思うのであった。

もう少し赤穂城内を散策する。史跡としての赤穂城跡の整備も進められているが、実は本丸御殿跡には行ったことがなかったので、足を延ばす。赤穂城の石垣、櫓といえば大手門のイメージが強かったのだが、こちらにも立派な門が復元されている。以前は高校の敷地だったそうだが、平成に入って復元整備が行われた。

本丸御殿跡は、浅野家後の間取り図をもとに、礎石上にコンクリートが並べられている。また、天守閣が建てられることはなかったが天守台の石垣も残されている。

赤穂市立歴史博物館に向かう。館内撮影禁止のため画像はないが、赤穂の塩と義士に関する展示が中心である。江戸時代に入浜塩田という製塩法が開発され、瀬戸内沿岸を中心に各地に伝えられた。浅野内匠頭と吉良上野介のいさかいの原因の一端に、赤穂の製塩法を教える教えないというのがあったという説もあるそうだが、そこは地形が違うのだから元々無理な話だっただろう。

こちらにも義士に関する展示があり、定期的に展示品も入れ替わる。私が訪ねた時は、義士の日常の姿をイメージした版画が並んでいた。また映像コーナーでは赤穂事件に関する紹介もあり、基本的なところのおさらいができる。

これで赤穂大石神社を含む赤穂城跡一帯を回る形となり、そろそろ駅に戻る。播州赤穂始発の姫路行きに乗り、相生で下車する。今回の札所めぐりの目的地は姫路で、レンタカーも姫路で借りるのだが、宿泊は相生とする。夜の一献を考えれば姫路に出ればいくらでも店はあるし、ホテルが満室というわけでもなかったのだが、おそらくこういう機会でなければ泊まることはないであろう相生を選択した。夜を静かに過ごしたかったのかもしれない・・・。

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