リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

科学の表現と感情

2008-07-20 21:22:48 | 行為
 以下は一種、前回の続きでして、実証により得た社会科学上の結論について、あるものの正否をいうとき、どのような仕方で正しい、あるいは間違っている、というかどうか。

 ある社会的な現象が存在する理由を述べるとき、存在する限りはそれは必ずなんらかの有用性を持つわけですが、その有用性をどのように有用だというか、ということは書く者に任されています。
 あるものが存在する理由に即して表現すれば、最大限の賛辞をかけることができます。
 ただその場合、変革期以外で存在するものは体制的なものだけです。なので、そうした表現が意味するのは単に体制賛歌ということになりはします。

 昨日、図書館でふと手にとった本。
 昔マルキストで、今はマルクス批判者に変わった大学教授のW,K.っていうおじさんがいまして、まあ名前を書けばその筋の方は知ってる人ですが、名前をあげるときちんと本を読まないといけないんで、そんな礼儀は時間の無駄のためやめます。
 で、立ち読みによるとその人が、寄生地主制度の弁護かなんかしてんですよね。「あれは、かえって小作人にいいんだ、とにかく資本主義の発展で当然だ」みたいな。
 当然はよござんすけど、かえす刀でマルクスレーニンを批判する。
 日本の寄生地主がいいとかどうかとかの類の論議に、マルクスもレーニンも関係ないんじゃねえかなあ、だから転向者ってみにくくてやだよねえ、って思いもしつつ。

【寄生地主制とは:いつもお世話になるウィキペディア】
「明治時代に行われた地租改正と、田畑永代売買禁止令の廃止により寄生地主制が進展した。地租改正により土地所有者は金銭によって税金を払う義務が課せられることになったが、貧しい農民には重い負担であり裕福な者に土地を売り渡し小作人になっていった。
寄生地主の中には質屋などの金融業を兼業し、小作人を中心に金銭の貸付を行っていたものも少なくなかった。これにより、農村内での貧富の差は一層拡大された。こうして獲得した富を商工業に投資し、近代的な資本家に転換していった者もいる。」

 こうゆうのを、いいとか悪いとかいう資格があるのは部外者や大学教授じゃなくて、そのときに生きていた人間だけなんですよねえ。

 国家官僚というのは、昔も今も、そのときの安寧秩序を守るために諸政策を打ってくる。その施策に国家としての合理性があることはわかりきっていることです。だから、その当時は、当事者以外は批判しない。
 だからって、100年も経った時期にあえてこれを肯定する挙にでる、ということは、それは国家イデオローグ=国家権力の代弁者といわれてもしょうがないことです。
 その時分であれば政策にはいくらでも選択肢があったのに、あんたは何の権利があってそれを肯定する?
 生きているのは今の人間じゃない。そのときに飢えて死んでいった人間、そのときに女衒に娘を売っていった人間、そのときに女衒に売られて強姦同様に死んでいった娘です。
 お前はなんでそんな人間の代弁が出来るんだ???
 国家の役人はそれは仕事だ。どこかの評論家や大学教授と違って同郷の娘が女衒に売られていくのを伝聞で聞きながら歯を食いしばって耐えた人間だっていたんだ。死んだ同郷の者のために毎日、仏壇に線香を上げてた官僚だっていただろう。それをよくへろへろと「よいことだった」などといえるな。なにが倫理経済学者だ。笑っちまうぜ。(違った、経済学部の倫理学者?)

 と、までは理論的にわかるんですが、過去マルキストだった人のくせになんで黙ってないんですかねえ、、、そこが分からない。私はマルキストではないですし、彼らはどうせ嘘つきですから恥とかは関係ないんでしょうが、では羞恥心とかはないんでしょうかね。

 じゃなくて今回のテーマです。実証というのはシンプルなものなのです。そうだった、あるいはそうでなかった。それだけのことです。これを権力の尻馬に乗った発言に翻訳して有名になるか、じっと我慢して、最低限の未来ガイダンスを与えていくか。
 皆様は「社会学者なんて地味で何もしないし」、とお思いでしょうが、私が90%の実証社会学者を信ずるのは、後者の点からです。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 実証社会学のアドバンテージ | トップ | お茶タイム »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

行為」カテゴリの最新記事