こんにちは。もうどんぐりの落ちる頃、秋が始まりました。嫌々過ごした夏もあれよあれよと過ぎてしまいましたが、変な夏でしたねえ。高熱と豪雨。で、今年は、というより去年から間断なく、ずっと野菜が高くてほんと不思議。円安やらなんだかんだで農業生産者の自衛行動とも疑ってしまいます(=いいチャンスだ、ここで高く売っとこう)。トマト1個160円税別ですぜ。この真夏下、燃料費もいらないのに。どんな理由があるんだろう。
で、聞いた? 消費税にマイナンバー使うって。前回言ったとおりしょ。そんなの想像できた?
国民管理の手立てについては、奴らは山のように引き出しを持っているんですよ。
今の世の中、買ったものを見れば、その人間の全部がわかるというもの。パンツの色だって知られちゃってますぜ、まだだけど。
あなたの存在は、すべて国家の手の中。消費税については今回は通らないけどね。
今回は念願がかなって法が通ったのではしゃぎすぎでつい口にしちゃったけど、次からは秘密のあっこちゃん、ふるい、ふるいど、外堀からどんどん埋められて、国民はがんじがらめの蜘蛛の網の中。
これは残念ながら私の哲学(塞翁が馬)をもってしても、良いところは見つからず。ひたすら環境の悪化。
さて、悪いニュースだとブログが下品になるので、なんとか良いニュースを見つけようと新聞等を見回しましたが、なんにもありません。しいていえば箱根火山の入山規制が2に下がったとか。仙石原のススキはきれいですぜ、まだ早いけど。
あと、自衛隊の人たちががんばっているとか。こういうのは自衛隊やらだれそれさんが、というより、助かった人がその人について思うはずのこと、というわけですが。人間の本来的認識過程ですね。人間は行為共同性のある人々が語る認識=一般的には語るべき本人に即した認識を、環境の事実認識とするわけです。
まあ、それはおいて、じゃあ、と最近借りたつまらない小本について。パーソンズの「知識社会学と思想史」とか。
以前富永の「思想としての社会学」を我田引水といいましたが、富永はこの本をお手本にしたのかもしれません。
デカルト、カント、デュルケーム、ウェーバー、マンハイム等について、好きなテーマをこさえて彼らがどう思っていたかを見る、パーソンズの我田引水。もっとも、この本の「思想史」という題は、元はideasだから、本人としては悪気はないのです、おそらく。原題のままなら、誰も社会思想一般の本とは思わないでしょう、私のようには。
なので、決してパーソンズは批難しませんが、こんなのを褒める人たちの気が知れない。
こうゆうのは、あくまでパーソンズの個人的理論箱庭についてのみ意義があるわけで、いやしくも社会学者たらんと欲してなった人間に意義などあるものか。どこかに社会事象の因果法則でも転がっているのか、普遍的哲学があるのか。いいや、ない。
しかも寂しい、あるいは侘しいと思ったのが、ここに取り上げられた「社会学の巨匠」。アイデアを検討すべき人間はこんだけしかいないのか(パーソンズは、こうした流れは派生させていけば人はどんどん増える、と述べてはおりますが、それは要するに、まとめりゃこんだけでいいということですな)。
しかし、本当は、そんなに寂しくなんかはない。日本に限って言えば、多くの実証的社会学者は一人ひとつ(や二つ)の社会事象の(因果連関にとどまらない)因果法則を明らかにしている。たとえご自身で明確に認識していないにせよ。
「巨匠」たちよりこちらのほうがよほど偉大だ。
ではあるけれど、本日のテーマは、「本当らしき認知」について。それらしき「巨匠」について、巨匠と行為共同性を持って憧れる人間には、どんなばかげた年寄りのヨタ話も称賛の対象となる。研究家等にとって「語るべき本人」とは、権威ある巨匠のことだからです。問題は「真実」や人間にとっての価値などではない。これが普遍的行為の下位原則です。
ということは、私もまだ書いていません。でも行為の下位原則について、ちょっとずつ書くこともありそうな。呼び方も決めてませんが。
前に戻って、さいきん、ビッグネームの理論家より、実証社会学者のほうが「理論的に」偉いと思ってきたのですよ。前から「研究者として」、より偉いとは思ってましたが、今回は「理論的に」。長生きはするものです、よかったよかった、知り合いにはそういう方が大方なので。
で、聞いた? 消費税にマイナンバー使うって。前回言ったとおりしょ。そんなの想像できた?
国民管理の手立てについては、奴らは山のように引き出しを持っているんですよ。
今の世の中、買ったものを見れば、その人間の全部がわかるというもの。パンツの色だって知られちゃってますぜ、まだだけど。
あなたの存在は、すべて国家の手の中。消費税については今回は通らないけどね。
今回は念願がかなって法が通ったのではしゃぎすぎでつい口にしちゃったけど、次からは秘密のあっこちゃん、ふるい、ふるいど、外堀からどんどん埋められて、国民はがんじがらめの蜘蛛の網の中。
これは残念ながら私の哲学(塞翁が馬)をもってしても、良いところは見つからず。ひたすら環境の悪化。
さて、悪いニュースだとブログが下品になるので、なんとか良いニュースを見つけようと新聞等を見回しましたが、なんにもありません。しいていえば箱根火山の入山規制が2に下がったとか。仙石原のススキはきれいですぜ、まだ早いけど。
あと、自衛隊の人たちががんばっているとか。こういうのは自衛隊やらだれそれさんが、というより、助かった人がその人について思うはずのこと、というわけですが。人間の本来的認識過程ですね。人間は行為共同性のある人々が語る認識=一般的には語るべき本人に即した認識を、環境の事実認識とするわけです。
まあ、それはおいて、じゃあ、と最近借りたつまらない小本について。パーソンズの「知識社会学と思想史」とか。
以前富永の「思想としての社会学」を我田引水といいましたが、富永はこの本をお手本にしたのかもしれません。
デカルト、カント、デュルケーム、ウェーバー、マンハイム等について、好きなテーマをこさえて彼らがどう思っていたかを見る、パーソンズの我田引水。もっとも、この本の「思想史」という題は、元はideasだから、本人としては悪気はないのです、おそらく。原題のままなら、誰も社会思想一般の本とは思わないでしょう、私のようには。
なので、決してパーソンズは批難しませんが、こんなのを褒める人たちの気が知れない。
こうゆうのは、あくまでパーソンズの個人的理論箱庭についてのみ意義があるわけで、いやしくも社会学者たらんと欲してなった人間に意義などあるものか。どこかに社会事象の因果法則でも転がっているのか、普遍的哲学があるのか。いいや、ない。
しかも寂しい、あるいは侘しいと思ったのが、ここに取り上げられた「社会学の巨匠」。アイデアを検討すべき人間はこんだけしかいないのか(パーソンズは、こうした流れは派生させていけば人はどんどん増える、と述べてはおりますが、それは要するに、まとめりゃこんだけでいいということですな)。
しかし、本当は、そんなに寂しくなんかはない。日本に限って言えば、多くの実証的社会学者は一人ひとつ(や二つ)の社会事象の(因果連関にとどまらない)因果法則を明らかにしている。たとえご自身で明確に認識していないにせよ。
「巨匠」たちよりこちらのほうがよほど偉大だ。
ではあるけれど、本日のテーマは、「本当らしき認知」について。それらしき「巨匠」について、巨匠と行為共同性を持って憧れる人間には、どんなばかげた年寄りのヨタ話も称賛の対象となる。研究家等にとって「語るべき本人」とは、権威ある巨匠のことだからです。問題は「真実」や人間にとっての価値などではない。これが普遍的行為の下位原則です。
ということは、私もまだ書いていません。でも行為の下位原則について、ちょっとずつ書くこともありそうな。呼び方も決めてませんが。
前に戻って、さいきん、ビッグネームの理論家より、実証社会学者のほうが「理論的に」偉いと思ってきたのですよ。前から「研究者として」、より偉いとは思ってましたが、今回は「理論的に」。長生きはするものです、よかったよかった、知り合いにはそういう方が大方なので。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます