リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

「神の手」のその根拠

2013-03-31 21:34:42 | 行為
 こんばんは。東京地方ここんとこずっと寒く、咲いた桜がさほど散らずに残ってはいます、が、そうはいっても寒い曇り空では私などはお花見気分になれません。私はすごくずっと前の晴れた日に見ているのでいいんですが。
 そんな満開の桜の原宿の一角で、本日は甥ッ子の結婚式。いいですねえ、結婚式って。どなたさまも若いときは幸せがいいです。
 年取ったっていいものはいいわけでしょうが、中高年的には、そう思いませんかねえ、ご同輩、、、ま、ご同輩はあまり読者として想定していませんが。

 さて、本日は、理論好き読者用。従いましてお題は、サッカーではなくアダムスミス、”神の見えざる手”の話。
 
 そりゃなんだ、というと、よくまとまっているので、日経の記事らしいですが、お借りして。
 『個々の消費者や企業にとって、市場メカニズムは目に見えない。だが、ある与えられた価格に従って自分の利益を追求するように行動するなら、財の需要量と供給量が変わり、価格が調整変更され、やがて需給が一致する均衡が達成される。

 均衡で達成される需要量と供給量は、無駄のない資源配分を反映している。消費者や企業が自分の利益を追求することで、社会の利益が高められるのである。』
http://cbc-souken.co.jp/cbc/2012/07/post-28.html
 
 しかし、見えざる手といっても別に事態が見えないわけではない。そういう調整は人間でもやろうと思えばできる。ってゆうか、そもそも資本主義的生産活動は人間がやろうと思ってしてるわけでして。「これ売れてないの? じゃ生産絞って」って。中央集権生産は、やり方がいいかげんなだけ。
 
 で、今日のテーマは、神であれ、人間であれ、調和的な活動ができる根拠は何か、ということで。
 なにそのテーマ、って、何をいいたいかは答えをいうと分かりまして。
 
 つまり、資本主義的生産活動ができる根拠は、初期社会主義者が主張するように、「所有」である。
 しかし、それはマルクスが言うような国家の基礎になるものではない。
 逆に、階級国家において、諸階級の国民が調和的な活動ができる根拠は、支配武力の貫徹なのであり、資本家の生産は、この武力に支えられた『所有権』の崇高さに基づいているわけです。
 つまり、日本のどこかでは工場で製品を作り、営業マンがそれを売り、家庭ではそれを買って自分達で使用する。他方、そんな生活を後押しする官僚と、また日本のどこかで、そんな生活など気にもとめず、日夜日の丸に向かって敬礼しつつ国家を守ろうと訓練を続ける自衛隊員がいる。そのトータルなシステムの根拠は、資本主義社会、その他の階級社会においては、支配武力であり、またそれに支えられた『所有』である。
 
 いや、何をいいたいかというと、ブログ2回前にマルクスの『所有』概念をばかにしたわけですが、そこを隈理論を知らない人間が読むと、私が『所有』概念自体を否定したかと思われるかとも思い。
 
 ほんとブログって話が通じないで面倒ですよね。いわんやツイッターをや、と思うんですが、ツイートで満足できる「言いたいこと」って、そんな軽い欲求って、わかんねえなあ、、、ま、それはいいや。
 
 で、続き。じゃあ、無階級社会では見えざる手はありえないのか、という話。
 そこには国家に守られた「所有」はなく、「占有」しかない。
 そんなものは隣の人間の武力で木っ端微塵だ、という展開ですね。
 
 いやそれで、私はこれまでは階級社会しか扱ってこなかったので、「共同体権力」という言葉を時折使っていたのですが。つまり、「過渡期社会にも共同体権力は残る」、みたいな。
 その『権力』なる語もちょっとねえ、と思いまして。
 で、今後、無階級社会の表現では、『占有の安定の根拠は共同体的利害である。』 みたいに、「共同体利害」というのが分かりやすくないか、と。ほんとは『行為共同性的利害根拠の同一性』ってゆうんですけどね。
 わかんない言葉使うより、近似的に分かるほうがいいやね。ほんと、エンゲルスは偉いんだよね。
 
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