リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

人民のイデオロギーとイデオローグのイデオロギー 2

2013-07-13 21:54:43 | 行為
 というわけでイデオロギー。
 唯物史観のイデオロギーとは、現マルキストの理解とは異なり、以下のようであるべきだ、ということで、これは《行為の集成》できちんと展開したんですが、きちんと書いてあるから実用的か、というとそうでもない。
 これも不思議ですが、人間、本当のことを知ることと、自分が展開する手段を知ることとは、若干、ないし、かなり、異なる。
 ところで、実用的なら次回隈の応用理論に載せられるだろうというと、そうでもない。なにしろ、話題がつまらない。
 というわけでここに書いとこうかな、と。
 
 さあて、すべてのイデオロギーは表現することで社会科学の対象となります。表現されない考えは人の頭に満ち溢れているでしょうが、表現される以前のそれは、精神医学の対象ですな。 
 問題は「イデオロギー」、表現されたそれです。
 
 他人に「こうせよ」という人を「イデオローグ」と呼びます。
  
 イデオローグの生理的特性、すなわち、一部であれ特定の支持者に「受けてなんぼ」という規定性は、そのイデオロギー表現も特定の枠をはめます。
 すなわち、
 まずは第1に、特定の支持者の将来的生理性の保全。
 第2に、特定の支持者の賞賛の確保です。
 
 人は生理性と優越的自由と賞賛で、社会的な選択肢を決めるというのが隈理論の基本。
 
 さて問題はここからで、彼らイデオローグは、その特定の支持者を自分で選ぶことができるということでなのです。
 
  すなわち、一方で、人民は、自己の将来的生理性の保全とともに、彼らの賞賛と優越を、それぞれに選ぶことができる。
 たとえば、現体制で上昇できる人民は、現体制の賞賛と優越を。
 上昇できない人間は、現体制の非難をする人間との同化的賞賛と優越を。
 
 その状況でイデオローグは、停滞的人民にコミットするかといえばそうではありません。
 彼らはあくまで彼らの賞賛と優越を満足する人員を、彼らの対象者として主体的に選ぶ。
 すなわち、今現在流布されている世間の賞賛と優越が確保される限りでの人民です。
 
 端的に言えば、彼らが自分の好みで動いたときに賞賛するはずの幻想の人民のことです。
 イデオローグは常にこの幻影に向かって将来的行為を行う。
 
 である限り、この「幻想の人民」の規定性が、表現されるイデオロギーとなり、ここでイデオローグの組織の数だけ、人民の存在形態が措定されます。  
 すなわち、彼らの優越の歴史的根拠である一瞬前の支配者の価値観。
 また、一瞬前の人民の行為共同性(の支配階級との共同の、たとえば、なさ)
 たとえばこれらが日本の戦後混乱期で言えば、「山村工作隊」を作るわけです。
 
 残念ながら、生理性のない表現者、すなわち一般のイデオローグは、常に、一瞬前の支配者の価値観を自己の表現の糧とせざるをえません。人間、稗飯を食っても生きていけますが、賞賛(優越)なしに努力をすることはできません。
 つまりかれらは表現の見返りを受ける必要があるが、その見返りは一瞬前の支配階級から受ける。
 もちろん意識化したイデオローグは、自己の価値観に則ることはできます。
 自由な彼はそのとき、現在の人民の価値観に則ることが選択できるし、仮に人民と支配者に行為共同性がない部分が大きければ、彼は大きな勢力をフォロアーとすることができます。 
 
 さて、ここに組織というファクターが入るとどうなるでしょうか?
 組織は、それが設定した地位による優越と、それが持つ共同性による社交により、自前で賞賛を分泌することができます。
 ましてやそこに生理性が確保されていれば(カンパ生活)、さらに充分です。
 かくてイデオロギー組織は、その時代では思いも寄らない価値観を特異に醸成することができることになります。
  
 マルキスト集団は、こうして人民から遊離する。
 もちろん遊離するのは悪いことばかりではありません、この冬の時代にも、おかげでそこそこに命を掛けて活動することができます。しかし、それをそうだと自分達で認識することが、人民を自分らが指導しようとなどと思う限りは、必要なのです。
    、、、難しかったですよね。これが本に書いてあったら誰も買いませんな。
 
 ということで、一番最初に戻りましょう。
 
 イスラム少女はイスラム教シンパのおっしゃる通り、イスラムの教えに沿って説を展開しているはずです。私は実態は知りませんが、それが今述べたように隈が展開した論理というものです。
 しかし、それと支配階級のイスラム教とはなんの関係もありません。
 関係があるというのなら、それはアナーキストの自由と聖徳太子の自由とは関係があるというのといっしょです。そりゃ関係はあるでしょうが、それはまた、関係があると発言するやつの人生の無意味さを世間に公表するのと同じことです。
 
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