こんにちは、って昨日の今日は早い?
明日生きてるかわからないからねえ、、
昨日はさんざん気晴らし書いたので、ちょっと正攻法で。
とはいえ誰にもウケない本題なので、ページを開いちゃった人あて。
週間天気予報とか見ると相変わらずの暑夏が1週間続くようで幻滅ですが、なんのなんの。日本全国、来週(28日)以降、最低気温がまともになります、ということは午前中は過ごせるということで。よかったね。
さて、本題は、次回論究、政治経済学書の構成の重要部分。。
テーマは、皆様お持ちの「同じ日本人」信仰をどうしたら中立化できるか、という「政治経済学的課題」。みんな他国に攻められたら「最後まで戦う」んでしょ? 困ったものだ。わたしゃ腹いせの反撃後はもうやめるよ。それ以上は女子供が死ぬからね。しかもそれを決めるのは私、希望だけど。まあ、変は変ということにしておきます。
で、世の中にそういうことを考えた人が、まあ他にはいないだろうなあ、と思ったらそうでもない。
西川長夫という比較文学者の「国民国家論の射程 あるいは〈国民〉という怪物について」。
はじめの5ページがとてもよい。けれど羊頭狗肉の羊頭はあれど狗肉がない。本人にとってはアルチュセールの枠組みが肉なのだろうけど、これは認められない。
まあこれも300ページ以上あるところ、奥歯にモノがはさまったような書き方なので翻訳して簡単に言ってみましょう。
『どこの国でも人民が「国民」として国家の奴隷になっている。これではならないのだが学者連中の営みを筆頭に、日々この「国民」の再生産がおこなわれている。私にできることはそれを暴くことくらいだが、学者連中を筆頭にひどい反発をくらっている。私でなければ倒れてしまうだろう。私はよくやった』という本です。
まあ東大教授(という、どんな院生でも評価するのが商売の)上野千鶴子が慰めてたりするんだけど、例によって口先だけだから慰めになってない。
いや歯に物をはさみながらも、アカデミズムの学者がよくここまで書いた、それは確かに闘いであったろうと思います。朝鮮侵略の具体的当事者の子、西川氏が、よく自分の過去を引き受けたものです、このアルチュセールの翻訳者がこんなに立派な人間とは思いませんでした。
と、本題はそれを踏まえただけで、「狗肉」の部分の見通しであります。
まずは、彼のテーマの扱いが悪い。国民と国家と、さらに〇〇国民はすべて次元の違う概念です。日本人学者、とりわけマルキストの系統は、近代科学による分析というものをぜんぜん身につけたことがない。
国家は今日は扱いませんが、「国民」と「〇〇国民、たとえば日本人」は同じ意味ではありません。前者は国家支配者によるイデオロギー付与の結果であり、後者は文化の問題です。
「高校野球とは友情、連帯そしてフェアプレーの精神」であるなどという言辞は、イデオロギー付与であり、甲子園で負けた高校野球部が隣県の野球部にいう「同じ東北、がんばれよ」なる言辞は、後者の「文化の問題」として立ち現れるわけです。
後者は、個々人の(部分的な)生活範囲がもたらす行為共同性の結果です。
あるいは「全体的な規定性」としては、「本来の」資本主義的装置においては、平等が前提であり、この平等的取り扱いが社会の行為共同性を極限にまでもっていく傾向性を持つのです、資本主義に関してだけで、支配者の意向とはかかわらない点で、ですが。
もちろんこの行為共同性の存在の不可避は、支配者にとって人民コントロールの美味しい源泉であり、このコントロールの出来不出来の規定性が、その中立的根拠性を、残念ながら、大きく規定するのです。
人民にとっても権力による自己の表現の擁護は大切な優越の源泉です。これはアカデミズムの学者も、井戸端会議しかしない市井の1市民にとっても同様です。アカデミストのほうが生活が懸かっている、ということはありますが、市井の人間とってはこの権力による擁護は、解放行動の中でも重要な位置を占めてしまうものです(拙著「解放行動の原理」既述)。
かくて、上記の状況に対抗するには
第1に、対抗権力の存在が支配者権力に対抗しうる大きな源泉となります。
ついで第2に、対抗権力を支える行為共同性の確立が、対抗権力を有効にする大きな力の源泉となります。
さらに、第3に、支配権力者による人民への「手出し」には常に、支配者の地位を揺るがしうるリスクが懸かります。そこでこのリスクの暴き出しが重要になります。。
第4には、「個的生命」ないし「個的生活」の人民個人にとっての第一義的価値化です。ポイントは、これはイデオロギー流布の問題ではない、というところです。
こうした日常について、支配者は「国民という攻撃」をかけてくるわけです。人は容易にこれに乗り、戦争に突入する。
と、ここまでは行動の具体性の次元です。
ここでちょっと考えてみましょう。戦争は誰が起こしますか?
ここには2つの立場がありますが、2つしかありません。戦わす立場と、戦わされる立場とです。
われわれ平民は「戦わされる」に過ぎないが、考えてみてください、誰が人民を「戦わす」のですか? 会社の経営者ではありません。プーチンであり、ザレンスキーであり岸田であり自民党議員です。もちろん、田舎の地主の末裔のくそじじいでもあるでしょう。
被支配を脱しようとする人々の連合は、同一的境遇の行為共同性にとどまらず、支配階級が仕掛けてくる「国民」攻撃を自己の力として逆手に持ち変えることが、多くの場合、必須です。もちろんそれによって得られる未来が「国民」から離れられるとは限らないのですが、少なくとも次なる段階に動かすことはできる。
それ以上によい未来ができるかどうかは、支配者による攻撃の時に、人民がどういう配置にあるか、による。
つまり、政治経済学に求められるものは、
第1に、支配者及び地域支配者の領土への欲望
第2に、これに対応しうる人民の自由への自己の力の認識
すなわち、個的生活の獲得力の自己認識と行為共同性認識
それらの分析枠組みの提出です。
これは物的強制状況を扱うことから社会学ではない。ところで政治学に原理はないから政治学でもない。だから、政治経済学の課題なのです。
と、西川氏の総括的グチを見るにつけ、ああ私の次の本も評判が悪いのか、とちょっと残念。
まあどうせ私が生きている間には受容されないし。
明日生きてるかわからないからねえ、、
昨日はさんざん気晴らし書いたので、ちょっと正攻法で。
とはいえ誰にもウケない本題なので、ページを開いちゃった人あて。
週間天気予報とか見ると相変わらずの暑夏が1週間続くようで幻滅ですが、なんのなんの。日本全国、来週(28日)以降、最低気温がまともになります、ということは午前中は過ごせるということで。よかったね。
さて、本題は、次回論究、政治経済学書の構成の重要部分。。
テーマは、皆様お持ちの「同じ日本人」信仰をどうしたら中立化できるか、という「政治経済学的課題」。みんな他国に攻められたら「最後まで戦う」んでしょ? 困ったものだ。わたしゃ腹いせの反撃後はもうやめるよ。それ以上は女子供が死ぬからね。しかもそれを決めるのは私、希望だけど。まあ、変は変ということにしておきます。
で、世の中にそういうことを考えた人が、まあ他にはいないだろうなあ、と思ったらそうでもない。
西川長夫という比較文学者の「国民国家論の射程 あるいは〈国民〉という怪物について」。
はじめの5ページがとてもよい。けれど羊頭狗肉の羊頭はあれど狗肉がない。本人にとってはアルチュセールの枠組みが肉なのだろうけど、これは認められない。
まあこれも300ページ以上あるところ、奥歯にモノがはさまったような書き方なので翻訳して簡単に言ってみましょう。
『どこの国でも人民が「国民」として国家の奴隷になっている。これではならないのだが学者連中の営みを筆頭に、日々この「国民」の再生産がおこなわれている。私にできることはそれを暴くことくらいだが、学者連中を筆頭にひどい反発をくらっている。私でなければ倒れてしまうだろう。私はよくやった』という本です。
まあ東大教授(という、どんな院生でも評価するのが商売の)上野千鶴子が慰めてたりするんだけど、例によって口先だけだから慰めになってない。
いや歯に物をはさみながらも、アカデミズムの学者がよくここまで書いた、それは確かに闘いであったろうと思います。朝鮮侵略の具体的当事者の子、西川氏が、よく自分の過去を引き受けたものです、このアルチュセールの翻訳者がこんなに立派な人間とは思いませんでした。
と、本題はそれを踏まえただけで、「狗肉」の部分の見通しであります。
まずは、彼のテーマの扱いが悪い。国民と国家と、さらに〇〇国民はすべて次元の違う概念です。日本人学者、とりわけマルキストの系統は、近代科学による分析というものをぜんぜん身につけたことがない。
国家は今日は扱いませんが、「国民」と「〇〇国民、たとえば日本人」は同じ意味ではありません。前者は国家支配者によるイデオロギー付与の結果であり、後者は文化の問題です。
「高校野球とは友情、連帯そしてフェアプレーの精神」であるなどという言辞は、イデオロギー付与であり、甲子園で負けた高校野球部が隣県の野球部にいう「同じ東北、がんばれよ」なる言辞は、後者の「文化の問題」として立ち現れるわけです。
後者は、個々人の(部分的な)生活範囲がもたらす行為共同性の結果です。
あるいは「全体的な規定性」としては、「本来の」資本主義的装置においては、平等が前提であり、この平等的取り扱いが社会の行為共同性を極限にまでもっていく傾向性を持つのです、資本主義に関してだけで、支配者の意向とはかかわらない点で、ですが。
もちろんこの行為共同性の存在の不可避は、支配者にとって人民コントロールの美味しい源泉であり、このコントロールの出来不出来の規定性が、その中立的根拠性を、残念ながら、大きく規定するのです。
人民にとっても権力による自己の表現の擁護は大切な優越の源泉です。これはアカデミズムの学者も、井戸端会議しかしない市井の1市民にとっても同様です。アカデミストのほうが生活が懸かっている、ということはありますが、市井の人間とってはこの権力による擁護は、解放行動の中でも重要な位置を占めてしまうものです(拙著「解放行動の原理」既述)。
かくて、上記の状況に対抗するには
第1に、対抗権力の存在が支配者権力に対抗しうる大きな源泉となります。
ついで第2に、対抗権力を支える行為共同性の確立が、対抗権力を有効にする大きな力の源泉となります。
さらに、第3に、支配権力者による人民への「手出し」には常に、支配者の地位を揺るがしうるリスクが懸かります。そこでこのリスクの暴き出しが重要になります。。
第4には、「個的生命」ないし「個的生活」の人民個人にとっての第一義的価値化です。ポイントは、これはイデオロギー流布の問題ではない、というところです。
こうした日常について、支配者は「国民という攻撃」をかけてくるわけです。人は容易にこれに乗り、戦争に突入する。
と、ここまでは行動の具体性の次元です。
ここでちょっと考えてみましょう。戦争は誰が起こしますか?
ここには2つの立場がありますが、2つしかありません。戦わす立場と、戦わされる立場とです。
われわれ平民は「戦わされる」に過ぎないが、考えてみてください、誰が人民を「戦わす」のですか? 会社の経営者ではありません。プーチンであり、ザレンスキーであり岸田であり自民党議員です。もちろん、田舎の地主の末裔のくそじじいでもあるでしょう。
被支配を脱しようとする人々の連合は、同一的境遇の行為共同性にとどまらず、支配階級が仕掛けてくる「国民」攻撃を自己の力として逆手に持ち変えることが、多くの場合、必須です。もちろんそれによって得られる未来が「国民」から離れられるとは限らないのですが、少なくとも次なる段階に動かすことはできる。
それ以上によい未来ができるかどうかは、支配者による攻撃の時に、人民がどういう配置にあるか、による。
つまり、政治経済学に求められるものは、
第1に、支配者及び地域支配者の領土への欲望
第2に、これに対応しうる人民の自由への自己の力の認識
すなわち、個的生活の獲得力の自己認識と行為共同性認識
それらの分析枠組みの提出です。
これは物的強制状況を扱うことから社会学ではない。ところで政治学に原理はないから政治学でもない。だから、政治経済学の課題なのです。
と、西川氏の総括的グチを見るにつけ、ああ私の次の本も評判が悪いのか、とちょっと残念。
まあどうせ私が生きている間には受容されないし。
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