リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

次回作構成予定(人間の居場所)

2024-02-10 17:18:47 | 賃金・価値・権力
 こんにちは、東京地方、今日もいい天気。といって、月曜は雪でひどかったです、ね。お勤めごくろうさまでした。わたしは真底冷えてぞくぞくしながら家に閉じこもっていました。黴菌には触れてませんから、寒さの風邪。
 で、関東地方、来週は18度、20度だってさ。めちゃくちゃ。うれしいんだけどね。3連休とれなかった人も、火、水はよい天気なので、ずれたほうがよいかも。梅は終わり加減ですが、こういうときは代わりがなんでもある植物園とかね、あったかかったら。わたしは珍しく所用外出予定。
 
 ところで、ふつう外出は買い物くらいにしかしないのですが、出かけると町でしんどそうに足をひきずる年寄りがぞろぞろいます。年取るとあんなになっちゃうのかねえ(私は違くてよかった)、なんて思った翌日、重いテーブルの脚にいやというほど自分の右足の指をぶつけ、痛さにソファーにうずくまりました(足元なんか遠すぎて見てない)。その結果、翌日の買い物はびっこひきひき止まり止まり。靴に圧されて痛いのだよね。可哀そうな年寄り、とか思われたかねえ、、、今は内出血アザも足の甲全体に広がったので、吸収されて終わりでしょう。
 
 皆様には、「何ごとも一瞬で起きる」という人生の真実を、とくに55歳過ぎたら思い出してくださいませ。55歳でそういう状況に陥り出すので、とばっちりで社会に迷惑がかからないように、人間、60歳定年制を作ったのであります。70過ぎたらアホばかり。
 ともかく暮らしの暗転は一瞬で起きます。まあ、5年に一回くらいの割かな。暮らしの明転というものも理屈上ありそうですが、まあ、10年に一回起これば幸せな人生ですね。
 ゆめゆめ自分は別だなどと思わないように。眼の悪い人は早く治しましょう。
 
 さて、きょうも特別なニュースはなく。
 ニュースではありませんが、ビオレ・キッチンハンド・ジェル・ソープ、の入れ物。以前サンスター練歯磨きのことを褒めたところ、これも素晴らしい。最後の最後まで石けん水をすくってくれ、まことに美事。美しい技術っていいなあ。

 ま、ということで、本日のお題は、スペース潰しで前回の続き。
 残された『それよりも問題は、「なんだこれは。どこに人間がいるのか」という批判で』問題。

 これはもともとは黒田寛一の「宇野経済学方法論批判」の提起。曰く、宇野には「疎外されたプロレタリアの自己回復のための主体性論」がないんだそうな。そりゃま、そうだ。
 彼の遺産にはもう主導理論の死に絶えた一派がありますが、若い頃には問題意識レベルではまともなものがあります、その意図は全部失敗しましたが。
 とはいえ、マルクスの意図は人間の主体性だ、とかって、そんな話は知っちゃいないさ 夜鳴鳥 関係ねえし。
 
 さて、ひとは或る理論に対してどう向きあうものなのか。

 社会科学の役割は、科学による社会把握とそこから発する因果連関の法則を武器として、人それぞれに異なる自己の人生を良い方へ向かわしてゆく、自己の自由を求めていく、そこにあり、そこにしかありません。それ以上に科学様に、あるいは理論様に、教えていただけるものなどないのです。
 人間行為者は、自己の環境を認識し、これを自己の自由に合わせようとして行為する。これは根本原則です。
 しかしある環境に対抗し自己の自由を手に入れるためにどうすればよいか、ということは決して普遍的に決まってはいない。 
 シンプルな例を出しましょう。「山火事だ、さあ逃げろ』。そんな状況で、もちろん多くの人々は炎の見えない方へ逃げるでしょうが、それが正しいかどうかは別問題です。炎の先へ先へと逃げても後から火が追いかけてくるイタチごっこかもしれない。そうじゃなくて炎を迂回して後ろに回ってしまえばそこが本当に安全なのかもしれない。
 つまり、資本論がどう工場労働者の現在の疎外を教えてくれようと、問題はそこではない。
 問題は、行為主体が持つ未来への道筋とその到達地点です。それがなければレベル上は「どうぞお好きな道を』でおしまいです。自由勝手な実存主義。もちろんそこで、前衛主義者の恫喝が入るわけで。「これこそが正しい道だ。他は堕落への道だ」。結論をどう評論しようが、同じことです。 
 
 社会科学上の実存の道とは、そうではありません。「この未来への道、行き先が知らされている道を、君の人生として行くのか行かないのか」という問いです。
 行先といっても、それは抽象的なものですから、「君の行先として君の人生に組み入れるのかどうなのか」というのが正しい言い方でしょうか。それは現象としては人それぞれで違う。
 そこまで提起して、それが科学の結語なのです。
 
 積極的に立ち入って書きましょうか。
 すなわち、それによって、自己と全世界人民の同一性なり加害・被害の関係なりを認識し得なければならない。
 プロレタリアート? 何の世迷言か。結論の場面までで科学として明らかにし終わっている(はずの)ように、世界はグローバルですが、その人民主体はプロレタリアートではありません。被支配人民一般なのです。くやしかったら工場労働者はグローバルな農民なしで生きてみろ、ということです。そうではない。次回作では、被支配人民は、プロレタリアに限らず、「生産・消費の場面においても」これこのように、同一の運命を持っているのだ、ということが明らかになっているはずです。「生産・消費の場面」、すなわち次回作が「経済学批判」たる所以です。

 さてその時点で、人生は読者にゆだねられるのです。
 

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