リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

オカルト(その12;「無」の2形態)

2021-01-01 17:14:05 | オカルト(途中から)
 明けましておめでとうございます。
 東京地方の正月は、操業休止と乾いた空気で、日の出過ぎても青空に日射しが眩しいほど。
 今日は初もうでに近所の神社に行きましたら、おやおや白梅がほころんで。蝋梅なんか一輪や二輪ではなく。新春ですね。ところで、蝋梅はやたら分厚い葉が残っていて、なんでも温暖化の影響とか。去年はきれいに落ちてたのですが。
 
 さて皆様、今年はいい子はおうちで? 
 2,3日前知りましたら、東京人口、1400万人だって。15年前は1250万だったよ。日本の人口は減ってるのに東京都だけさらにさらに増えて、東京集中も口先だけじゃなく、根本的に国家政策を見直したほうがいいんじゃないのかね。
 まあ、それはいいとして、東京には田舎のある若人がたくさんいるというわけでしょう。 若人は関係ないでしょうが、もう正月も症状悪化でパニックになっている家がたくさんあるようで。だからさ、他人事じゃないって。なかなか家族関係というのは大変です。
 うちも今年はお客さん無し。まあそれも仕方がない。
 
 昨日は食器洗い中、紅白でふと振り向いてテレビの前に行った(前に行かないと見えない19インチ)相手が、やっぱ古いんだね、坂本冬美とさだまさし。それ過ぎたらほとんど知らないんで、風呂に入って寝てしまいました。
 それにしてもさだが太って。なんだいありゃ。歌詞はいい歌だったけどね。
 必死だったら太るはずもない、しかし、必死の歌詞しか頭に浮かばない、とりつかれた人間の悲しさだね、谷川俊太郎のように。
 その点、坂本冬美はシリアスな歌詞も自家薬籠中。ほどほどに生きてる姿が見えて、誠実でうれしいよ。

 で、本題、正月恒例のオカルトでございます。
 今まで、純粋宇宙を無とすれば、星のある宇宙は、「無A」が破れた際の、エネルギーの体系であることが知れました。「物質」という名のエネルギーの下で、「広さ」も生じ「時間」も生ずる。
 と同時に、「無B」は、このエネルギー形態に引きずられて、個別化する。これがいわゆる生命でした。
 この生命の特徴に個別性や時間があることも知れましたが、ここで「広さ」あるいは「距離」について言っていませんでした。
 普通に暮らしていて悟るのは、同じ空間にだけ限れば、それは二人で満たされている空間。
距離的に何メートル離れていてもそれは同じ。
 ということは、自分の、行為主体の、空間を分断しているのは、目、あるいはそれを含む触感覚。そうした、個別身体的感覚、これが諸悪の根源ではないかと。これは元をただせば「物質」の存在形態なのでどうしようもありませんが、なにもわれわれ人間は、「孤独」である必要はないのだ、ということです。
 いやそれをいえば、世の中で「労苦」と言われるものは、自分への関心に限れば、身体への刺激のせい、「物質」性のせいなので、物質性がなくなれば何ほどのこともないわけです。
 もちろん触感覚や身体への抵抗がないと人間生きていけないし、諸生物も同様だろうと思うのですが、そうした身にまとう生物の諸特性は、幸せを疎外している。
 「有」の存在の原罪とでもいうべきものであります。

 という付言をいたしまして、オカルト問題で残るのは、この「無A」と「無B」の合理的統一と、霊の行方、だけだね、たぶん。なぜ物質と生命とは同時に生まれたか、また、生まれた世界の中を占める霊は時間の中でどう消えるかということです。
 
 そんなもん分かるわけないって? それは違う。人間のわかり方など1通りしかないのだから、その合理性を「ウソだ」といわれても、他にありえなければそれが正しい。何百万年経とうと、それが人間の持てる唯一の真理。もっとも科学ではありませんが。
 
 さて新年です。今年の予定は次(々)回作の草稿化。
 それよりも神様がいるのなら希望があるのですがねえ。なに平凡な、皆様と一緒の希望です。
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