リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

全体システムの縦断平面の例示

2021-01-16 16:07:15 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。東京地方、1日おきに暑く(?)なったり寒くなったり。今日は「暑く」の日でうれしい。外は枯れ野だけれど、今だけと思えばそれもよし。草がぺしゃんこで歩きやすい。
 それでも植え込み(生垣)の下なんかに雑草が黄色く咲いてたりします。木の根元は温かいのかねえ。ひどい風は吹かなそうだけど。
 窓からどっかで「パフ PUFF」の縦笛(リコーダー)が倦まず(うまず)にもう1時間くらい聞こえます。
 パフの縦笛は過去何回も記憶がありますが、小学3年生の課題? しかしこんなに長くえらいもんだ、わたしゃ到底できない、と思ってよく聞くと、おばさんの叱咤の声が。なんだよ、やらされてんのか。これじゃ偉い人にはなれないな。
 
 ところで、2回前の寒い日はこの辺もみぞれで、できた水たまりで(ノラ)猫が水を飲んでました。自分では遠い景色は見えませんが、家人に教えてもらって。
 と思って考えるに、この辺じゃ水飲めるとこなんてないぞ。野良猫はそこそこいるけど、あれらはどこで水を飲んでるのかしら。時々食べ物をあげてる人がいるけど、ちゃんと水をあげてるのかなあ、と少し心配。まあ猫好きの人にはそんなの当然なんだろうね。
 私も嫌いじゃないのでネット動画とか見るのですが、あれひどいね、コメントが。
 無理やり「かわいい」「いやされる」とか思わせるようなコメントつけて、まず半分はかわいそうな動画だよね。ペットの身にもなってみろよ、と思うぞ。
 で私など、コメント読むだけにしておくのです。
  
 さて、ニュースは手遅れのコロナ。 
「大江戸線運転士の集団感染、「盲点」だった共用洗面所の蛇口」(読売新聞オンライン)
洗面所の蛇口から2,30人に移ったんだって。
 お前、常識ってもんないだろ、と思いましたが、二日後
「これについて二木氏(昭和大の二木芳人客員教授(感染症学))は、「ここから三十何人に一気に広がるのは考えがたい気がするんです」と見解をコメントした。」(スポニチ)
 そうだろ? 当たり前。
 まったく。保健所の医者って、まともなのはごく少数。それより責任取れよ、根拠もないヨタのおかげで心配性のおばさんたちが脱毛して学校教師がさらに消毒作業に精を出さなきゃならない。遊びじゃないんだぞ。
 
 などと、今年になっても体調(心調)が悪い。
 ここは気晴らしが回り道のようでも近道、と、いつものモンテクリスト拍、じゃなくて、子ども用・講談社「巌窟王」を借りてきました。お目当ては挿絵。かっこいいんだ。
 のつもりが、1961年版の挿絵は池田一雄、ってポプラ社のアルセーヌルパン全集の人。えええ、まいったなあ、こんな優男じゃズッコケだよ、予約取り寄せだから知らなかった。
 本物はさあ、 梁川剛一、1950年版。これも知らなかったら、函館の高田屋嘉兵衛像を作った人だって。って知らないか。まあいいや。
 翻訳の文章なんてさあ、実は子供にはわからないと思うぞ。子供って文章を超えて想像してるからね、どんなんだってそうは変わらない。しかし、挿絵は決定的だと思うぞ、それで創造の道筋ができてしまう。子どもの本の挿絵は大事にしてほしいものだ。
 というわけで、まだ古書店にあるうちに買おうかなあ。。。
 とは思うけど、せっかく入手しても私もそんなに生きないからねえ、、、
 
 じゃあ本題。
 去年の秋は「上位と下位の視点の接続法」と題しまして、縦断平面を本来のシステムから取り外す手法について述べたところですが、じゃあ、この縦断平面はどういうものになるのか、と。
 例は、先週のトランプ派の議会襲撃。
 これはどういうものだったかというと、支配者でなくなった、しかしまだ権力者である人間の言を都合よく我がものとすることにより、自分にとっての支配権力の巣を叩き壊さんとする社会事象です。運動と呼ぶにはアピールが不明確なので、「事象」くらいね。
 これは、権力は確かに階梯をもつものだけれど、しかし縦断法にとっては同一平面の闘争です。そこでは肉体的武力の戦いとなるわけです。
 これがシステムの権力的縦断平面のうち、肉体的リンクです。
 この権力平面の上には、肉体力のリンクと正義認識のリンクと権力的将来の知識のリンクと感情のリングがあります(この名前、リンクがいいかリングがいいかと思案中)。
 一番のポイントはこの縦断平面には「(政治)思想」はない、ということです。襲撃グループが何を思っていようと、ここでは関係がない。トランプ派だろうがアナキストグループだろうが、この時点では問題ではない。
 ついで、ここは抽象次元であり、この一瞬には、時間もない。それゆえシステムもないのです。(リンク間には継起の順番はあります。そのうち述べます。)
 といって、縦断平面論の真骨頂はそこにあるのではなく、時間を無視し、システムを無視し、すべての社会構成員がこれに参加しうるところにあるのです。これは現実の説明ではなく、規定性の説明なのです。この場面から社会構成員を分化させるのは、行為共同性です。
 システムと縦断平面との接続は表立っては行為共同性が行う(本質的には事実認知)。行為共同性の規定性は階層的横断平面が行います。
 というわけで、長い間世間にあり続け、今も潜在的にあり、若人の「理論家」がそれに手に染まらずにはおれない「対権力闘争論」では、(長いね) ゲバルトすれば勝利するとか、思想的勝利が大切とか、団結をすれば勝利するとか、ほんとに子供じみた言い分が説かれるわけですが、そんなものは、このシステムにかかわらない範囲での権力的縦断平面の一部を拡大したものに過ぎないのです。そんなもので言い争う「理論家」たち。
 あまりにも幼稚。
 
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