こんばんは。
仕事から帰ると、家人が、ベランダに蝉が一日居続けて、おかげでベランダに出られないとのこと。
ベランダを見ると下にミンミン蝉が疲れた加減で座っていたので、そんなこといっても下の地面に落とすとアリの奴らに食われるんだよな、と、しかたがないので試みにベランダの柵の上あたりに置いて「神様のいうとおり」、をしてみますと、蝉がすっと体を動かし、頭を上げて目に入ったのであろう向かいの緑の森めがけて一直線に飛んでゆきました。
うつくしい。
のどだって渇いたろうし。よかったよかった、とりあえず。
さて、当方、不満な出来事は1つほどに収まりまして、血圧も3ヶ月ぶりに平常に近いあたりに落ちました。
というわけで、「ストレスも少なくなると、血圧は落ちるが、それには3ヶ月かかるといえそうだ」 が現在の血圧テスト集約。
もっとも、「そりゃ夏のせいで血管が開いているだけだ」 というのも有力な説なので、しばらくは結論はお預け。
で、本日は
その1 鷲田小弥太。
私儀、ちょっとヘーゲルの全体像で仕事(論理構築)への刺激をと、思って探すいきつけの図書館の本棚ですが、ヘーゲル解説が鷲田氏のものしかありません。
西研なんて論外なんで。
まあ、文がわかりやすいから、と思って借りた彼の『ヘーゲルを「活用」する!』彩流社、2007、いや、これが「当たり」。
わたしゃこんなヘーゲルを読んだことはありませんでしたよ。ばかばかしくて。
そうだ、これが正解だ、偉いぞ鷲田、よくここまで掴んだ、みたいなもんですな。
これは褒めてるので誤解なきよう。
過去的最近までのヘーゲル本は、同じようにばかばかしいことを言っても、「ヘーゲルの弁証法を使って分析すると」みたいな腰の引けたものしかありませんでしたが、(いえ、出版時間差はよく分からないものもありますが。だいたい出版日なんか出版社次第ですので、第3者には分かりかねます、って自分の事情のことです)、そりゃキミ、弁証法の理解が違うだろう、で終わってしまうのですが、
この本は、「ヘーゲルはこうだ」ですもんね。いさぎよいぞ。うんそうだ、それでようやくヘーゲルのバカさがわかった、てなもんです。
でも私にしても「ヘーゲルはバカなはずだ」、ということがわかったのは、この10年くらいですからね。鷲田氏はそれ以前に知っていたのでしょう、たとえ腐っても哲学者ですな。
それにしても、最近の図書館の哲学コーナーはどこへいっても鷲田、鷲田。(清一もいますが)。 よっぽど鷲田が偉いのか、図書館員がバカなのか、出版社が売れりゃなんでもかまわない情けも根性もないところだから鷲田を売るのか、その全部か。
さて、その2。しかし、本当のことを言えば、ヘーゲルの真価はそんなところにあるのではない。
ヘーゲルの真価は、弁証法を突き詰めて思考しつつ、それを個別事象の分析にあてたところにある。
私的には、いってしまえば、それを明らかにしたのは武市健人しか知りませんけどね。
私にとって意味があるヘーゲルとは、ヘーゲルではなく武市なんでしょうかね。
でもそれも違う。
この違うということを若人にお知らせしたい酔言。
老人というのは、全体像認識と個別思考とで、違うんですな。
老人はすでに全体分析枠組みを持ってしまっている。
「わかるわかる、へえ、なんて俺は中高年で賢くなったんだ」、と思っても、それは、鷲田のように科学的根拠などない感覚的世界認識にアテハメを行っているだけにすぎない。
ヘーゲルも残念ながら晩成でね。 彼の仕事の全体を見てしまうと、そこに見つかるのはすでに中高年の思い込み、イデオロギーでしかない。
皆さんも、日本で70歳過ぎてまだ本書いてるじいさんたち、みんな自分の過去の解説以外はアホだって気づいてました?
でも、彼ら本気なんだよね、別に痴呆症じゃなくて。
昔得た自分の評判で、自分の全てが社会に妥当してるんだ、と思い込んでるんですな。かくて永遠に続くイメージの鋳型生産が始まります(そういうのを認知症というんでしょうが)。ったく、出版社もいいかげんなもんさ。
とはいえ、老人だからアホだ、と思うのも間違いだ。
老人でも個別論理は、正しい方法論があれば、その頭脳で加減乗除のようにたどることはできる。
おそらく、ヘーゲルの論理学のコアは、いくら中高年の産物でも、たしかに論理的攻略物に値するに違いない。
なんて思ったところです。
というのは、私でさえ最近なんでもわかってしまうので。
「わかった」といっても、それは自分でわかったと思い込んでいるだけではないか、ほんとうは自分のイメージを弄んでいるだけなのではないか って、えらい? 謙虚だねえ、、、
はい、人の振り見て我がフリ直せ。
手をつけ始めた応用理論、記述はしっかり論理のみで押さなければ、と思うところであります。
仕事から帰ると、家人が、ベランダに蝉が一日居続けて、おかげでベランダに出られないとのこと。
ベランダを見ると下にミンミン蝉が疲れた加減で座っていたので、そんなこといっても下の地面に落とすとアリの奴らに食われるんだよな、と、しかたがないので試みにベランダの柵の上あたりに置いて「神様のいうとおり」、をしてみますと、蝉がすっと体を動かし、頭を上げて目に入ったのであろう向かいの緑の森めがけて一直線に飛んでゆきました。
うつくしい。
のどだって渇いたろうし。よかったよかった、とりあえず。
さて、当方、不満な出来事は1つほどに収まりまして、血圧も3ヶ月ぶりに平常に近いあたりに落ちました。
というわけで、「ストレスも少なくなると、血圧は落ちるが、それには3ヶ月かかるといえそうだ」 が現在の血圧テスト集約。
もっとも、「そりゃ夏のせいで血管が開いているだけだ」 というのも有力な説なので、しばらくは結論はお預け。
で、本日は
その1 鷲田小弥太。
私儀、ちょっとヘーゲルの全体像で仕事(論理構築)への刺激をと、思って探すいきつけの図書館の本棚ですが、ヘーゲル解説が鷲田氏のものしかありません。
西研なんて論外なんで。
まあ、文がわかりやすいから、と思って借りた彼の『ヘーゲルを「活用」する!』彩流社、2007、いや、これが「当たり」。
わたしゃこんなヘーゲルを読んだことはありませんでしたよ。ばかばかしくて。
そうだ、これが正解だ、偉いぞ鷲田、よくここまで掴んだ、みたいなもんですな。
これは褒めてるので誤解なきよう。
過去的最近までのヘーゲル本は、同じようにばかばかしいことを言っても、「ヘーゲルの弁証法を使って分析すると」みたいな腰の引けたものしかありませんでしたが、(いえ、出版時間差はよく分からないものもありますが。だいたい出版日なんか出版社次第ですので、第3者には分かりかねます、って自分の事情のことです)、そりゃキミ、弁証法の理解が違うだろう、で終わってしまうのですが、
この本は、「ヘーゲルはこうだ」ですもんね。いさぎよいぞ。うんそうだ、それでようやくヘーゲルのバカさがわかった、てなもんです。
でも私にしても「ヘーゲルはバカなはずだ」、ということがわかったのは、この10年くらいですからね。鷲田氏はそれ以前に知っていたのでしょう、たとえ腐っても哲学者ですな。
それにしても、最近の図書館の哲学コーナーはどこへいっても鷲田、鷲田。(清一もいますが)。 よっぽど鷲田が偉いのか、図書館員がバカなのか、出版社が売れりゃなんでもかまわない情けも根性もないところだから鷲田を売るのか、その全部か。
さて、その2。しかし、本当のことを言えば、ヘーゲルの真価はそんなところにあるのではない。
ヘーゲルの真価は、弁証法を突き詰めて思考しつつ、それを個別事象の分析にあてたところにある。
私的には、いってしまえば、それを明らかにしたのは武市健人しか知りませんけどね。
私にとって意味があるヘーゲルとは、ヘーゲルではなく武市なんでしょうかね。
でもそれも違う。
この違うということを若人にお知らせしたい酔言。
老人というのは、全体像認識と個別思考とで、違うんですな。
老人はすでに全体分析枠組みを持ってしまっている。
「わかるわかる、へえ、なんて俺は中高年で賢くなったんだ」、と思っても、それは、鷲田のように科学的根拠などない感覚的世界認識にアテハメを行っているだけにすぎない。
ヘーゲルも残念ながら晩成でね。 彼の仕事の全体を見てしまうと、そこに見つかるのはすでに中高年の思い込み、イデオロギーでしかない。
皆さんも、日本で70歳過ぎてまだ本書いてるじいさんたち、みんな自分の過去の解説以外はアホだって気づいてました?
でも、彼ら本気なんだよね、別に痴呆症じゃなくて。
昔得た自分の評判で、自分の全てが社会に妥当してるんだ、と思い込んでるんですな。かくて永遠に続くイメージの鋳型生産が始まります(そういうのを認知症というんでしょうが)。ったく、出版社もいいかげんなもんさ。
とはいえ、老人だからアホだ、と思うのも間違いだ。
老人でも個別論理は、正しい方法論があれば、その頭脳で加減乗除のようにたどることはできる。
おそらく、ヘーゲルの論理学のコアは、いくら中高年の産物でも、たしかに論理的攻略物に値するに違いない。
なんて思ったところです。
というのは、私でさえ最近なんでもわかってしまうので。
「わかった」といっても、それは自分でわかったと思い込んでいるだけではないか、ほんとうは自分のイメージを弄んでいるだけなのではないか って、えらい? 謙虚だねえ、、、
はい、人の振り見て我がフリ直せ。
手をつけ始めた応用理論、記述はしっかり論理のみで押さなければ、と思うところであります。
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