リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

空想の「現状分析」から科学へ

2024-07-20 16:56:23 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。東京地方、梅雨が明けました。早すぎ、だがまあしょうがない。去年並みなら生きていけそう。しかし、ベランダの草々が、、、
 勤労者の皆様はご苦労さまです。昨日は暑かった? 汗をかかない私といっても汗がにじむから不思議。図書館と買い物等が終われば気持ち悪くて。夜に風呂に入ってようやく人心地がつきました。勤労者の皆様におかれましては、お弁当の食中毒にもご留意ください。
 学生さんは夏休み? 専門課程なら授業も休みも一緒だよね。それより就活か。私の時は9月だったけど、くそ暑い時期に不快なことやらされて死ぬがや、、学生時代、愛知県人多かったな、、
 
 今日の朝日新聞の土曜特集、「アンパンとクリームパン、どっちが好きか」。
 7対3でアンパンだってさ、というよりクリームパンなんて売ってるのかね、野球グローブのようなクリームパン。わたしなんかクリームコッペしか思い浮かばない。コッペはときどき昼に食べてたけど。
 で、私の好きなチョコパンは6位。次に好きなジャムパンは7位。メロンパンやレーズンパンのほうが偉いのだと。へええ、そっかねえ。レーズンパンて、ド高級なやつがあるからねえ。ジャムパンに高級はないな。
 
 さて、ニュースといえばトランプ。
 トランプはほんと悪運だねえ。これで民主党も、おかげでバイデンを引きずりおろす手間がなくて良かっただろう、どうせ誰が出ても負けるから。
 しかし犯人、ふつう「失敗したらどうなるか」とか考えんじゃん? ほんとに考えが浅い、下手くそのくせに。しかもAR15って悪名高い非力の自動小銃(弾が風に流されて狙っても当たらない)。マンガの見過ぎだよ、ゴルゴ13。ハマスの人質作戦はイスラエルスパイの扇動だろうけど、これはあさはかな独りよがりだろう。

 ところでトランプ、声が死んでるぜ。だいじょぶか? 虚しさに気づいちゃったんじゃないかね。と、1行替えて書いちゃったよ。
 (で、これは昨日の夜のサンケイ解説のウサ晴らしなんだけどさあ、なに、産経新聞客員古森義久って、ただの馬鹿じゃん、他人の言うこと何も聞いていない。言いたいこと言ってるだけのイデオロギーの権化。だから70過ぎても雇ってもらえるんだろうけどね、「あの方は客員です、うちのせいじゃあありません」。
 いや、これは個人攻撃ではありません。70歳以上まとめて攻撃です。いや、83歳だと!! クソボケ野郎らはすっこんでろ。なに? 誹謗だ? じゃあ、2024.7.20.20.35以降、BS8ちゃんで、クラフトと何をしゃべったか、やれるもんなら文章にして明らかにしてみろよ。ま、本人は自分がバカなことなんか知りもしないだろうが、文で書いたのを読めば自分の脳力の程度の学習にはなるだろう。)
 
 ウサ晴らしついで。
 「体操女子 日本代表 宮田笙子選手19歳 喫煙 飲酒でパリ五輪辞退」(NHK)
 あにいってんだよ、ウサ晴らしにタバコ吸ったくらいで。てめえらだってやってただろうが。ジジイどもが。
 そういう問題じゃない? ないから不愉快だってんだ。けがらわしい。ところで、男だったらどうしてたか、ちょっと誰か調べて文春に報告してやれよ。

 さて、本日はウサ払いの日ではありません。
 本題は3回前の次回作構成中、現状分析。なんか宇野の図式と間違われても嫌なので。

 「現状分析」なんていうと、こどものような敵味方のケンカ情勢と思われてしまいますが、そんなことは政治屋諸君にまかせておけばいい。政治屋のプロパガンダに社会科学は無用。どうせウソだから。
 しかしそうではありません、経済学ではなく社会科学としての現状分析が存在する、それはなにか、ということで。

 さてと。まず「そもそも論」で。
 社会上の制度は、人間の自由な行為を制限して初めて制度となる。この制限を叙述することが、社会科学の原理となるのです。すなわち、経済現象の原理は、経済現象を貫く、権力の網目を叙述することで確立する、これが原理論です。
 
 もちろん、この権力の網目は、人間の自由な行為に対し、いつまでも同じ効力を持たない。
 その規定性の変化の理由を叙述するのが、段階論です。
 宇野経済学の段階論は、析出論理の道筋は違うが、その論理の納得さを支えているのがこの現実の事情です。
 
 人はこれに対し、「現在」を取り立てて別扱いしたがる。それはタテマエ上、現在は過去の歴史分析の対象から外れうるからですが、現実には現在を自己の自由な行為の下に置きたい欲求によっている。人は自己の次の将来を「自己の事実認識」の下に置きたいのです。ところが残念ながら、社会は「自己」の下におくことはできない。この欲求は、客観性をもつことはない。
 では、現在と、現在とつながる未来とは、科学上の範囲を越えているのだろうか? そうではない。科学には科学の資格において語る「現在」があります。
 
 そもそも社会科学の究極の目的は、日本ないし世界の現状を分析すること「ではない」。
  (宇野は「である」といっている。「社会科学としての経済学」p.83(p.s. 81と見間違い))
 さらに現在の社会の諸問題に対する政治的な解決の方向、仕方等を示すもの「でもない」。
  (宇野は「とならなければならない」といっている。同上。)
 社会科学とは、各行為者が自己の行為によっていかに自己の将来を変えうるか、ということを示すものであり、あるいはその判断素材を与えるものです。それは常に行為主体「個人」に所属転化するものでなければなりません。
  
 つまり、目的の基準は、他人の、ましてや政治家の、利害の成否にあるのではなく、各行為者の将来への主体的判断にあるのです。
 社会科学の目的は「分析」ではなく、判断の一歩手前の事実認知の素材であり根拠です。これに資するのが、自己の自由を阻害する状況原理と、その状況の現実行為への歴史的現状です。
 すなわち、積み上げた社会科学的定言の現在的妥当性がわかればよいのです。妥当性、すなわち、自由の拘束状況においては、生産手段と消費物資の獲得の方途を除いた後に残った権力現象化の要素、拘束の現象可能性、すなわち支配者の自由度と、人民の肉体力の潜在性の現象化可能性です。 
 ここに、経済パターンではありえないが、そういいたければ「現状分析」、あるいは現在的状況の総合的手引きがあるのです。 
 
 上記の結果、

 原理論とは、いわば、歴史性をもった形式社会学的定言の束となる。これは経済現象に焦点をあてながら記述することもできる。
 
 段階論とは、この定言に対して、それら定言が展開する歴史です。この次元において、原理論の歴史性がこれら特殊的歴史を差し引いたものであることが分かる、すなわち段階論という論理段階が客観的に存在するわけではなく、それがただの叙述の便宜的形式だからです。ただ、この叙述を経済学的に終えることはできない。そもそもが「行為の理論」だからです。それが経済学的照明の下でなされる、というに過ぎません。
 
 さて、現状分析です。つまり、真理の学において、3つの正しさの段階があると考えること自体が誤りなのです。 
 原理論においては、観念的に想定しうる規定性が把握され、
 段階論においては、その規定性に対する、時代の人民の行為性が把握され、
 現状分析においては、規定性と人民の反応を既知として、現在の行為主体にとっての事実認知として、武力行使可能者の自由度と人民の肉体力の潜在性の対応を、把握されるのです。これは統合された社会の学、社会科学です。
 
 このように、結果として社会科学上の取扱い範囲は原理論を下に逆三角形になるといってもいい。これらは単に叙述の便宜に過ぎないからです。これは、そもそも社会科学の領域を作ったのは筆者ではないことに由来します。今となっては、規定性の理解のためにはこうなる、というわけです。

コメント
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