言ってはいけない/橘玲著(新潮新書)
副題に「残酷すぎる真実」とある。事実は時には不愉快なことがある。常識と思われていることと真逆のものもある。それは考えてみると実に当たり前のことだが、人はやはりそのことを理性ではなかなか受け入れがたく思うものではないか。そのことの代表としては、運命論ではない生まれつきのもの。見た目の格差が人生に影響することと、努力よりも才能の方が上であるとか、遺伝的な決定論ではないか。ここは日本だから言っても身の危険は無いだろうが、「白人より黒人の方が知能指数が低い」というような統計データを出したとしたら(出ているが)、例えそれが事実だとして、そのことの意味を勝手に不快に解釈する人は絶対多数派だろう。さらに男女にもそのような差が明確にみられるということを公言すると、その発言者に批判が集まるのは当然ではないか。不都合な真実は、結局は社会的に受け入れがたい偏見にしか見えない訳だ。
事実であっても倫理としてダメなものは、本当であっても罪なのだろうか。もしもそうであるなら、現代社会はコペルニクスの時代と何ら変わりは無い。そうであるなら事実を受け入れるべきなのではないか。しかしやはり時代が受け入れる方が、やはり何かと不都合があるのではないか。読みながら考えたことはそういうことで、例えば女性のオルガスムスの時に声を上げることが、進化論的に多数の男を誘うためであると説明されたところで、レイプをした犯人の罪が軽くなるわけではない。人間の進化上の必然が人間界の法を変えることはおそらく無い。結局はコシップの種くらいにしかならないかもしれない。
そうではあるが、犯罪者が遺伝的に特定できたり、また心拍数の低さから将来的な犯罪の監視を行うことは真面目に検討されている。大衆の安全のためには、時には行き過ぎと思われるような法案が通ることもある。ある意味では防犯上合理的であるにしても、統計上のことと実際のまったく危険度のない人間が混ざることは、本当に容認できることなのか。また、ナチス時代には優生学的知見から、強制的に虐殺などが行われた歴史的な事実もある。そのことに嫌悪する人があっても、同時にナチスが行った禁煙などは、現代社会人は当然視して受け入れているように見える。結局は時代の価値観に合う事実を取捨選択して、科学というのは都合よく利用されているだけなのではないか。
遺伝や進化論は、近年新しい発見が相次ぎ、新しい理論がまったく別の次元のパラダイムを形成しつつあることは間違いない。既に知っている人と知らない人とに、知識上の大きな格差が広がっている可能性すらある。世間一般では古い常識がいまだに支配的でありながら、間違いなく新しい領域の学問の世界が、次代の常識として研究の表舞台を走っているのだ。それは一部の知識人には既に常識化しているが、いまだに古い学問の世界に知らずにとどまっている無駄もあるわけだ。そのような滑稽な人間を傍観するのも、時には娯楽である。不都合で不快だけれど、面白いのはそういうわけなのだ。