●米国の人権事情
1787年制定の合衆国憲法には当初、いわゆる人権の規定がなかった。権利の章典を付けていなかった理由は、連邦政府は人民から委託された権限のみを行使し得る権利を制限された政府であるから、権利の章典を付けることは、この原則を侵すものとなるという点にあった。だが、権利の章典がないことをもって憲法案に反対する意見があり、権利の章典を追加することを条件として、憲法案を承認した州が少なくなかった。
そこで89年第1連邦会議で権利の章典が提案され、所要の数の州の承認を得て、91年に発効した。これが、合衆国憲法修正10カ条である。修正第1条は、国教の禁止、信教の自由、言論及び出版の自由、集会の権利、請願権に係ることを規定した。以下の条文は、捜索・逮捕押収、死刑・破廉恥罪、不利益な供述、財産の徴収、裁判、弁護人の依頼、保釈金、罰金、刑罰等に関する権利を規定した。今日も合衆国の特徴の一つである人民の武器保有と武装の権利は、修正第2条に規定されている。、また修正第3条には民兵と兵士の舎営に関する権利が規定されている。これらの権利は、米国の国民の権利であり、修正10カ条をすべて人権とみなすのは適当ではない。むしろ、修正10カ条は、米国民の権利を連邦憲法に定めたものである。
修正10カ条の主な内容は、自由権だった。自由権を国民の権利として保障した。ただし、権利の主体は白人男性のみを対象としていた。白人女性、インディアン、黒人は除外されている。ここに定められた権利は、特定の人種・性を前提にしたものゆえ、人権とは言えない。普遍的でなく特殊的な権利は、特権である。すなわち、合衆国憲法が修正条項に定めた権利は、アメリカ国民である白人男性の特権だった。合衆国憲法に、「婦人参政権修正」として知られる修正第19条が追加されたのは、1920年だった。黒人に参政権を与える修正条項が追加されたのは、1865年から70年にかけてだった。憲法に婦人参政権を定めたのは、それより約50年後のことだった。
本章が対象とする時代の範囲を少し超えるが、黒人問題について補足すると、アメリカ国民は19世紀半ば南北戦争で国内を二分する内戦を戦った。南北戦争は今日、内戦(シヴィル・ウォー)とされているが、南部諸州は独立国家を結成したのだから、国際紛争と見るべきである。北部側は、かつてイギリスから独立していながら、自国からの独立は認めないというわけである。
最初は南部が優勢だった。しかし、リンカーンは1862年に、国有地に5年間居住・開墾すれば無償で与えるという自営農地法(ホームステッド法)を発布し、これによって、西部農民の支持を獲得した。さらに、63年に奴隷解放宣言を発し、内外世論を味方につけた。ゲティスバーグの戦いで北部が優勢になり、65年北部が南部に勝利した。
欧米では、16世紀から黒人奴隷貿易が盛んに行われ、約1000万人に上る黒人が、アフリカからアメリカ大陸に送られた。19世紀に奴隷廃止運動が起こり、1833年にイギリス、48年にフランスで奴隷労働が廃止された。1860年の英仏通称条約で奴隷貿易が禁止され、実効性を持たせるため、海上での臨検の権利を定め、奴隷貿易を海賊行為とした。こうしたヨーロッパの動向がアメリカ合衆国に影響を与えた。
南北戦争後の1865年から70年にかけて、修正第13条、14条及び15条が追加された。これらの3カ条は、「南北戦争の結果たる修正」として知られる。第13条は1863年の奴隷解放の布告を憲法上明文化したものであり、本条によって奴隷制度が廃止された。また14条は黒人に市民権を付与するもので、15条は黒人の参政権を保障しようとしたものだった。だが、実質的な差別は存続した。黒人解放運動が成果を上げるようになったのは、1940年以降であり、1964年にようやく公民権法が成立した。権利においては平等が実現した。しかし、現在も米国の大都市では、居住地と学校において、黒人の隔離が続いている。
トッドが明らかにしたように、米国における黒人たちは、身体的差異という宿命的な違いによって差別される。黒人は、「お前は人間だ」と言われながら隔離される。それによって、心理的・道徳的な崩壊に追い込まれる。ここに米国という差異主義社会の根本構造が立ち現れる。すなわち、白人/黒人の二元構造である。そして、アジア人を含む広義の「白人」の平等と黒人差別の共存は、アメリカ建国当時の「領主民族のデモクラシー」が今日まで、アメリカのデモクラシーの本質として続いていることを示しているのである。
21世紀の現在、超大国アメリカは世界で最も豊かな国でありながら、貧富の差が大きい。1980年代から、急速に差が広がった。日本や欧州諸国より機会の均等が実現しておらず、富裕層と貧困層が固定しつつある。貧困層の多くを、黒人が占める。社会保障が発達しておらず、国民全体をカバーする医療保険制度がなく、新生児死亡率が高い。その面では、先進国とはいえない。ノーベル経済学賞受賞者のポール・クルーグマンは、極端な格差の原因には「白人による人種差別意識がある」と告発している。こうした現状は、アメリカ独立革命に含まれていた構造的な特徴に源を持つ。アメリカ独立革命を「自由の革命」と理想化することは、誤りであることを知らねばならない。
次回に続く。
1787年制定の合衆国憲法には当初、いわゆる人権の規定がなかった。権利の章典を付けていなかった理由は、連邦政府は人民から委託された権限のみを行使し得る権利を制限された政府であるから、権利の章典を付けることは、この原則を侵すものとなるという点にあった。だが、権利の章典がないことをもって憲法案に反対する意見があり、権利の章典を追加することを条件として、憲法案を承認した州が少なくなかった。
そこで89年第1連邦会議で権利の章典が提案され、所要の数の州の承認を得て、91年に発効した。これが、合衆国憲法修正10カ条である。修正第1条は、国教の禁止、信教の自由、言論及び出版の自由、集会の権利、請願権に係ることを規定した。以下の条文は、捜索・逮捕押収、死刑・破廉恥罪、不利益な供述、財産の徴収、裁判、弁護人の依頼、保釈金、罰金、刑罰等に関する権利を規定した。今日も合衆国の特徴の一つである人民の武器保有と武装の権利は、修正第2条に規定されている。、また修正第3条には民兵と兵士の舎営に関する権利が規定されている。これらの権利は、米国の国民の権利であり、修正10カ条をすべて人権とみなすのは適当ではない。むしろ、修正10カ条は、米国民の権利を連邦憲法に定めたものである。
修正10カ条の主な内容は、自由権だった。自由権を国民の権利として保障した。ただし、権利の主体は白人男性のみを対象としていた。白人女性、インディアン、黒人は除外されている。ここに定められた権利は、特定の人種・性を前提にしたものゆえ、人権とは言えない。普遍的でなく特殊的な権利は、特権である。すなわち、合衆国憲法が修正条項に定めた権利は、アメリカ国民である白人男性の特権だった。合衆国憲法に、「婦人参政権修正」として知られる修正第19条が追加されたのは、1920年だった。黒人に参政権を与える修正条項が追加されたのは、1865年から70年にかけてだった。憲法に婦人参政権を定めたのは、それより約50年後のことだった。
本章が対象とする時代の範囲を少し超えるが、黒人問題について補足すると、アメリカ国民は19世紀半ば南北戦争で国内を二分する内戦を戦った。南北戦争は今日、内戦(シヴィル・ウォー)とされているが、南部諸州は独立国家を結成したのだから、国際紛争と見るべきである。北部側は、かつてイギリスから独立していながら、自国からの独立は認めないというわけである。
最初は南部が優勢だった。しかし、リンカーンは1862年に、国有地に5年間居住・開墾すれば無償で与えるという自営農地法(ホームステッド法)を発布し、これによって、西部農民の支持を獲得した。さらに、63年に奴隷解放宣言を発し、内外世論を味方につけた。ゲティスバーグの戦いで北部が優勢になり、65年北部が南部に勝利した。
欧米では、16世紀から黒人奴隷貿易が盛んに行われ、約1000万人に上る黒人が、アフリカからアメリカ大陸に送られた。19世紀に奴隷廃止運動が起こり、1833年にイギリス、48年にフランスで奴隷労働が廃止された。1860年の英仏通称条約で奴隷貿易が禁止され、実効性を持たせるため、海上での臨検の権利を定め、奴隷貿易を海賊行為とした。こうしたヨーロッパの動向がアメリカ合衆国に影響を与えた。
南北戦争後の1865年から70年にかけて、修正第13条、14条及び15条が追加された。これらの3カ条は、「南北戦争の結果たる修正」として知られる。第13条は1863年の奴隷解放の布告を憲法上明文化したものであり、本条によって奴隷制度が廃止された。また14条は黒人に市民権を付与するもので、15条は黒人の参政権を保障しようとしたものだった。だが、実質的な差別は存続した。黒人解放運動が成果を上げるようになったのは、1940年以降であり、1964年にようやく公民権法が成立した。権利においては平等が実現した。しかし、現在も米国の大都市では、居住地と学校において、黒人の隔離が続いている。
トッドが明らかにしたように、米国における黒人たちは、身体的差異という宿命的な違いによって差別される。黒人は、「お前は人間だ」と言われながら隔離される。それによって、心理的・道徳的な崩壊に追い込まれる。ここに米国という差異主義社会の根本構造が立ち現れる。すなわち、白人/黒人の二元構造である。そして、アジア人を含む広義の「白人」の平等と黒人差別の共存は、アメリカ建国当時の「領主民族のデモクラシー」が今日まで、アメリカのデモクラシーの本質として続いていることを示しているのである。
21世紀の現在、超大国アメリカは世界で最も豊かな国でありながら、貧富の差が大きい。1980年代から、急速に差が広がった。日本や欧州諸国より機会の均等が実現しておらず、富裕層と貧困層が固定しつつある。貧困層の多くを、黒人が占める。社会保障が発達しておらず、国民全体をカバーする医療保険制度がなく、新生児死亡率が高い。その面では、先進国とはいえない。ノーベル経済学賞受賞者のポール・クルーグマンは、極端な格差の原因には「白人による人種差別意識がある」と告発している。こうした現状は、アメリカ独立革命に含まれていた構造的な特徴に源を持つ。アメリカ独立革命を「自由の革命」と理想化することは、誤りであることを知らねばならない。
次回に続く。
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