ほそかわ・かずひこの BLOG

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カント20~ショーペンハウアーの意志

2013-09-11 10:24:55 | 人間観
●ショーペンハウアーの「意志」による仮説

 ここで補説として、カントの哲学を継承しつつ、独創的な思想を展開した哲学者のショーペンハウアーと、その影響を受けて無意識の領域の研究をした心理学者のユングについて書く。彼らはそれぞれ視霊現象や超能力に取り組み、独自の考察を行った。時代的には18世紀のカント、19世紀のショーペンハウアー、20世紀のユングということになる。ショーペンハウアーとユングについて書いた後、心霊論的人間観に係る現代の科学者の様々な仮説を紹介する。
 最初にショーペンハウアーは、幼くして欧州諸国を回り、各地で強制労働、貧困等の悲惨さを見た。それによって、ペシミズム(最悪観)の世界観を持った。プラトンのイデア説、カントの批判哲学を学んだ後、20代でインド哲学に出会って、ウパニシャッドや仏教の影響を受けた。その影響のもとに、カント哲学を独自に解釈し、発展させた。31歳にして、主著『意志と表象としての世界』(1819年)を刊行した。
 カントが物自体は認識できないとし、叡智界と同一の領域と考えたのに対し、ショーペンハウアーは物自体は意志であるとし、「世界は私の表象である」と説いた。現象として経験する一切のものは我々が生んだ表象であり、知覚に内在するア・プリオリなカテゴリーに従って生起する。知覚のカテゴリーは、時間、空間及び因果性である。因果性というのは、カントの12のカテゴリーを因果性に包含させたものである。さらに「表象は根拠律に従属する」とし、時間、空間、因果性は根拠律の三つの特殊形態であり、表象を成立させる形式とみなした。「表象としての世界」では、物自体を理性によって認識することはできない。だが、物自体はこの原理を超越しており、現象界の背後にあって自存しているとした。こうしてショーペンハウアーは、カントの物自体を意志と規定することによって、別に「意志としての世界」を構想した。
 「意志としての世界」という観点に立つと、現象とは、世界における意志の客観化であるとされる。意志は、人間のみならず動植物・無機物の中にも等しく存在する。ショーペンハウアーはここで身体に注目し、身体運動は直接的に認識される意志であり、意志の客観化であるとした。人間の意志は知性から生じたものではなく、生を意欲する衝動の中にこそある。意志とは、盲目的な「生きんとする意志」である。この「生きんとする意志」が世界全体を形成する動因である。物質・精神はともに意志の表れであり、重力、磁気、電気等の自然の諸力も、みな意志の表れである。ショーペンハウアーは、このように考え、万物の根源としての意志を「原意志」と名付け、世界とは原意志の現象、客観化であるとした。そして、衝動的な盲目の意志を否定することで、解脱に達することができるという思想を説いた。意志の否定は、原意志の否定ではなく、個人における意志の否定である。意志の否定には、他者に自己と同じ苦悩を認識することで純粋な愛が生じる「共苦(同情)」と、また自己の死さえも意志からの解放とみなす「禁欲」という二つの道があるとした。これらの道は道徳的実践であり、解脱ということから東洋人が連想する修行、例えば瞑想、ヨガ等の具体的な方法は、説かれていない。
 ここでインド哲学との関係を述べると、ショーペンハウアーは、自分の説く意志を、インドのバラモン教における最高原理、ブラフマン(梵)と同一視した。もともと一つである意志は、時間と空間の形式によって多数の個体に分離して現れる。ショーペンハウアーはこれを「個体化の原理」とし、「マーヤー(幻影)のベール」と呼んだ。この考え方は、ヴェーダーンダ哲学に通じるものである。ヴェーダーンダ哲学では、自然界の諸事象も、個体の人格的な意志やその行動も、すべて虚妄のものとし、人生の目的はブラフマンとの合一による解脱であると説く。だが、ショーペンハウアーの意志とブラフマンは同じではない。ブラフマンは非人格的な宇宙の最高原理であり、アートマン(我)という個体的原理と対をなす。アートマンは、気息を原義とし、生命や自我・霊魂を意味する。ブラフマンとアートマンは同一無差別であると説くのが、梵我一如の思想である。これに対し、ショーペンハウアーの意志は、自然の諸力や人間の意欲あるいは行動となって現れるものだから、ブラフマンとは異なる。ショーペンハウアーにはアートマンに当たるものがない。輪廻の観念もない。
 またショーペンハウアーは解脱への道を説くが、その意味は仏教の教えと異なっている。仏教では、輪廻転生を繰り返している世界から抜け出ることを解脱という。もとにあるのは、因縁生起すなわち縁起の理法である。縁起説は、キリスト教の人格神による宇宙創造説とは、相容れない。仏教の代表的な教説の一つである唯識説は、あらゆる存在や事象は心の本体である識の作用によって仮に現れたものに過ぎないとし、阿頼耶識を万物の展開の根源であり、万物発生の種子であると説く。これに対し、ショーペンハウアーは、「客観的世界は単なる脳の現象である」「我々によってア・プリオリに認識された法則は、(略)単に直観並びに悟性の形式から、つまり脳の諸機能から発生する」とし、表象を脳が生み出す現象と考えている。この場合、身体の器官としての脳が失われれば、表象は消滅することになる。その場合、表象の記憶は残存するか、どこに保持されるかという問題がある。
 西欧でウパニシャッドや大乗仏典の本格的な翻訳が出たのは、ショーペンハウアーの死後のことだった。ショーペンハウアーがインド哲学と仏教を同じようなものと理解していたのは、時代による制約が大きい。

 次回に続く。

■追記
 上記の拙稿を含む「カントの哲学と心霊論的人間観」は、下記に掲載しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion11c.htm

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