ほそかわ・かずひこの BLOG

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カント19~カント哲学の心霊論的発展を

2013-09-10 08:48:50 | 人間観
●カント哲学の心霊論的発展を

 本章の結びを書く。カントは、『視霊者の夢』で、心霊論的な信条を書いたうえで、自らそして普通の人間が経験できないことはあえて語らないことにした。だが、カントは、キリスト教の信仰に基づいて、神、霊魂の不滅、霊界、霊的共同体とのつながり等を信じ、心の中ではその心霊論的信条を持ち続けた。それが彼の批判哲学、特に道徳哲学の前提となっている。実践理性による神、不死、自由の要請や、「目的の国」、道徳的な宗教、自然の目的、永遠平和、国家連合等の思想の根底には、心霊論的信条がある。カントが、キリスト教を合理化し、道徳的宗教に改善しようとしたのも、単に道徳的・世俗的な実践のためではなく、心霊論的信条を以て道徳的な実践を行うことが、来世の幸福につながるという考え方によるものである。
 三大批判書等の著作では、あからさまに言わずに、哲学的に厳密な論理で書いているので、その前提が見逃されやすい。そのうえカント以後のカント主義者は、この心霊論的な信条を排除または隠匿し、カント哲学を啓蒙主義的に合理化した。カントを理性中心、自我中心の哲学者だと単純化した。それが通説となった。カントの神と自然、歴史に関する項目で西田、和辻、ヤスパース、ドゥルーズの所論に触れたが、彼らもカントの心霊論的信条に注目していない。また哲学の立場からの心霊論の考察を行っていない。
 近代西洋人の心の深層を研究した哲学者・湯浅泰雄氏は、『ユングとヨーロッパ精神』で(人文書院)で、カントについて次のように書いている。カントによって「理性的自我意識の哲学が確立したことによって、人間性の本質から身体と情念(したがって無意識)の作用が完全に排除された」。「理性を最高の価値としたカントは、身体や情念を人間性の本質から排除するとともに、一切の霊的存在者の領域をも抹殺してしまった」と。だが、「一切の霊的存在者の領域をも抹殺してしまった」というのは、誤認である。通説に引きずられたものだろう。カントは、晩年まで霊的存在者について書いている。一切の抹殺ではなく、非キリスト教的な霊的存在者を排除したものである。キリスト教は自然崇拝を否定しており、近代化の過程で「世界の呪術からの解放」を進め、自然界における霊的存在者を意識の外へ追放した。カントは、これを徹底した。そのうえで、自然をキリスト教の神が人間の歴史に関与する際の代理者としたのである。
 カントの道徳観を、私の理解で言い換えれば、普通人には体験することのできない霊魂や霊界への関心に深入りし、現実の生活が疎かになってはいけない。現世においては、大地に足を踏まえて、身体的生命を生きよ。現実の社会での責務を果たせ。時が来れば、魂は死とともに来世に赴く。来世の存在を信じつつ、現世でなすべき務めを果たせ。来世がどうなるかは現世で何をなしたかの結果であって、いまこの人生を精一杯生きよ。現世で道徳的に生きてこそ、来世での幸福が得られる、ということになる。
 これは、現世肯定的かつ来世肯定的で因果応報的な道徳観である。キリスト教的ではあるが、イエスの教えが、現世否定的で来世志向的であるのとは、異なっている。カントは、現世肯定的かつ来世肯定的なプロテスタンティズムの考え方に立っている。ただし、カルヴァンの救霊予定説とはまったく違う。救霊予定説は、神を絶対化し、死後救われるかどうかは予め神の意思によって決められており、人間の行いは神の意思に一切影響することができない。道徳的な因果律を否定する。予め救われるように神に選ばれている人間と、選ばれていない人間には、絶対的な差異がある。絶対的な不平等である。これに対し、カントは、現世における人間の道徳的な実践が、来世の幸福につながるという因果応報の考え方である。人間は神の前で無力な存在ではなく、自らの意思で努力し、その結果を得ることができる。来世の救済についても、機会の平等の思想を示している。なお、私の見るところ、釈迦は現世否定・来世志向でイエスに通じる。マルクスやニーチェは現世志向・来世否定である。神道や日本の大乗仏教は現世肯定・来世肯定である。カントは、この点に限っては、神道や大乗仏教に通じる。
 ただし、カントには、キリスト教の枠を出る考えは、まったくない。キリスト教の枠内で、科学と両立し、道徳化した宗教を志向した。18世紀西欧にあって、もし霊魂や霊界、霊力、奇跡を徹底的に疑えば、キリスト教を否定し、無神論、唯物論になる。フランスには、そういう思想家が多く出現した。これに対し、ユダヤ=キリスト教的な唯一絶対神を認めない心霊論もある。プラトンや仏教、ヒンズー教は、そうである。ショーペンハウアーは、その影響のもとに、独自の哲学を展開した。これに比べ、カントは、あくまでキリスト教的である。私は、カントの心霊論的な信条に基づく道徳哲学をそのようなものと理解する。
 カントの霊的共同体は、キリスト教の神のもとにおける天使、聖人の霊等の集団である。人間は、神だけでなく霊的共同体にその一員としてつながっている。そして、霊的な交流ができると考えた。ここで特徴的なのは、カントが、家族であっても死後、それぞれ別の場所に行き、場合によっては永遠に会うことがないという見方を強調していることである。死別した親子や夫婦、兄弟、祖孫が霊界では、ばらばらになる。この点で、カントは極めて個人主義的である。神道的な世界観では、霊的共同体に当たるのは、親や祖先を始めする祖霊の集団であるが、カントには祖先崇拝がない。自然崇拝とともに祖先崇拝を否定したキリスト教を基盤としているからだろう。
 私は、人間は家族的生命的な存在であると考えており、人間の霊性においても、家族的生命的なつながりが主たるものと考える。原初的な世界観を保つ神道の考え方は、心霊論的人間観に深く通じるものである。カントには、自分が家族において夫・父・子・子孫等の具体的な役割を持つ存在であるという意識が弱い。生涯独身者だったこともあってか、カントには、生命の継承や繁栄に係る義務や、祖先の祭祀を行う義務が意識されていない。道徳的一般法則を示す定言命法に、子孫繁栄や祖先祭祀が含まれていない。あまりにキリスト教的であることによって、カントの心霊論的道徳哲学は、人類に普遍的な思想となり得ない。
 カントの哲学は、物自体は理論的に認識できないとしつつ、心霊論的信条に基づいて、神、不死、自由を要請する。それゆえ、土台になっているキリスト教の信仰が揺らいだら、カントに依拠する者は、深刻な不安に陥る。理性の絶対的命令は、キリスト教の権威があってのものだから、その権威が低下すると、定言命法による道徳法則は、人々が無条件で従うべきものではなくなる。19世紀以降の西洋では、この傾向が進行している。ニーチェが指摘したニヒリズムの問題である。
 21世紀の今日においてカントの思想を発展させるとすれば、キリスト教に基づく心霊論的信条を非キリスト教文化圏に開かれたものとし、哲学と超心理学・トランスパーソナル学を結びつけることが必要だろう。その際、先に書いた万有在神論は、心霊論的人間観に基づく万有在神論とするならば、哲学と超心理学・トランスパーソナル学とがそこで結びつき得る、一つの有効な理論となるだろう。それによって、西欧発の哲学は、人類の精神科学の発達に寄与することができるだろう。

 次回に続く。

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